魔道書物語
グリモワール
〜 光闇の魔道書 〜
第3話 : 掘り出しもの






 走るリプトンの頭上に、炎の破片が降り注ぐ。彼の急ぐ先から飛んできた、炎に包まれた建材だ。それをいちいち避けながら走るので、淵猫(トランペルン・カッツェ)の足元にはなかなか辿り着けないでいる。
 遅れて走る私も、進行方向に次々と生まれくる炎に、迂回を余儀なくされていた。しかしその迂回路でさえ、炎を噴き出す建物とのわずかな隙間でしかない。こんなところに建材が崩れ落ちてきたら、ひとたまりもないだろう。
 …とか言ってる傍から、ちょうど道を塞ぐような形で炎の塊が降ってくる。
 来た道は炎で覆われ、すでに退路は絶たれている。これを何としてでも通り抜けなければ、炎の海の只中に取り残される…それどころか、炎の塊が落ちた衝撃で、この辺りはすべて炎に覆い尽くされるだろう。
 魔法は…唱えている時間が無いっ!
 瞬間に判断して、進路を断とうとしているの炎の落とし戸の向こうへと急ぐ…が、確実に狭まっていくその空間には、もはやそのまま走り抜けるだけの隙間は無かった。
 決死の覚悟でその下に勢いをつけて頭から飛び込むが、すでに炎の塊は、膝丈ほどの高さにまで近づいてきている…
 …間に合わないっ?
 背中に迫りくる高熱を感じ、半ば観念する…だが、それはいつまで経っても私を押し潰そうとはしなかった。
「おいっ、いつまで寝てるんだよっ!」
 炎に包まれた建材の代わりに、声が降って来た。
「…リプトンっ?!」
 気がついてみると、私の周りで踊り狂っていた炎の姿は見えず、代わりにそこにはリプトンが立っていた…抜き身のブレードを手にして。
 …つまり恐らくは、建材が私を押し潰す直前に、それを炎ごと断ち斬ったのだろう。私の両脇には、まだくすぶっている大きな建材のカケラが転がっていた。それらは、寒気さえ覚えるほどのきれいな切断面を覗かせていた。
「お前に自殺願望があるとは知らなかったな」
「…そんな訳無いじゃないですか。…でも、お陰で助かりましたよ」
「お互い様だ…それより急いだ方がいいんじゃねぇか?」
 リプトンが目で指した方向には、暴れ続ける淵猫の姿があった。炎以外に時々見える光は…恐らく、反対側で街の魔法使いたちが応戦しているのだろう。だが、数、威力ともに、それはひどく心許なく見えた。
「そうですね…リプトン、頼みますよっ!」
 リプトンは私の声を背中で受け、燃え盛る炎の海へと駆け出し始めた。まっすぐと、その向こうにいる淵猫に向かって。
 もはや、淵猫と私たちの間には、炎が荒れ狂っていない場所は無かった。…我ながら、炎の海というのは言い得て妙だ。そしてそれは、決して引かない波のように、リプトンを飲み込もうと襲いかかってくる。
 それに対して、リプトンはその足取りを乱すこともなく、右手に持ったブレードを一閃させる…と、炎の波は、まるで本物の波が岸壁に当たって砕け散るように、リプトンの前から霧散していった。
「一気に行くぞ! フォート、遅れるなよっ!」
 リプトンは、ブレードの切っ先が地面をかすめるほどに低く右に構え、もはや壁と言った方がふさわしいくらいに大きくなった炎へと突進していく。そこから押し寄せてくる熱波は、それだけで皮膚に火傷を負うほどの温度がある筈なのだが…リプトンはそれを意に介した様子がまるで無い。
 何となくその理由に見当をつけてはいたが、今はそんな事を気にしている場合ではない。私も熱さに耐えながら、リプトンに続いて炎の壁へと走っていった。
 ブレードを右へ左へと極端に大振りしながら、リプトンは立ち塞がる炎の壁を斬りつけていく。その後には、燃え盛る炎も、崩れ落ちて燃え上がる建材も姿を消し、ただ無残に焼け痕の残った1本の道があるだけだった。
 その道の開拓者が淵猫を間合いに捉えるまで、約10m。しかし、ここまで来れば私には充分な距離だ。両断された炎の壁も、リプトンのお陰で、暫くは倒れてくる心配もないだろう。だが、それでも私は急いでバックパックを探り、中から目的の魔道書を取り出す。
 放っておけば街が全焼する事もあり得る。それにラティのことも気がかりだ。そんな状況で、あまり時間はかけたくなかった。
 私は、普段使い慣れた呪文の記されたページを付箋で探り当て、詠唱に入った。

  其は黄昏より出ずる光
  其の行きつく先もまた黄昏なり
  法(のり)に従いて其の身を焦がし
  疾風(かぜ)の如く駆け抜けよ

虹晶疾走(プリズマティック・シュート)っ!
 頭上に輝く光球から弾き出される10本の光条を、すべて淵猫に差し向ける。それは腕に、額に、胸に、腹に、背中に、足に…淵猫の体のいたる所に命中する。が…
 とても猫とは思えない(いや、実際猫ではないのだが)妙にくぐもった低い唸り声を上げ、淵猫はこちらに…私とリプトンの方に向き直った。
 …効いてないっ? そんなっ!!
 確かに淵猫を相手にするのはこれが初めてだが、虹晶疾走が貫通しないほどの表皮を持っているなんて話は聞いた事が無い。どういうことだ?
 予想外の事態に戸惑いを覚えているその間にも、リプトンは炎をかき分け、淵猫の足元へと近づいていく。すでに両手にはそれぞれ武器を構えている。私が淵猫の注意を逸らしていれば、間合いに入り次第斬りつけられるだろう。
「…くっ!」
 私は焦りを抑えながら、再び同じ呪文を解き放った。今度はすべての光条を1点に集中させる。今まで試した事は無いが、理論的には破壊力は格段に上がる筈だ。
 が…
「…っ!」
 今、確かに見た。淵猫の額に虹晶疾走が当たる直前に、空間が波紋のようにうねり、光条を拡散させるのを!
「まさか…攻呪防膜(ラ・ディーレン)?」
 その名の示すとおり、差し向けられた攻撃呪文を捕らえ、その威力を拡散してくれる防護膜を張る呪文だ。これでは、虹晶疾走の威力は殆ど抑えられてしまっているに違いない。
 しかし、淵猫が魔法を使うとか、この手の能力を使うとかいう話も聞いた事が無い。だとすると、誰かが淵猫に攻呪防膜をかけたと考えるのが妥当だ。
 …よく見ると、淵猫の向こう側でも、呪文を弾き返しているらしい波紋が見える。この業火の向こう側で応戦している街の魔法使いたちも、恐らくは私同様、有効な打撃など殆ど与えられていないに違いない。
 ともあれ、魔法使いが多いこの街にあって、未だに淵猫が猛威を振るっている現状には、これで納得が行く。だが、そうすると、もっと重大な問題が浮かび上がってくる。
 …一体誰が、淵猫に攻呪防膜をかけた?
 冥魔の中にも魔法を使えるものは確かに存在する。その冥魔が淵猫に攻呪防膜をかけたと考えるのが一番自然ではあるが、その姿どころか気配さえも感じられない。しかし、そんな芸当が出来るのは…
 それ以上の疑問が浮かび上がるのを、不意に上がった甲高い悲鳴が中断した。
 見ると、リプトンが淵猫の脛に一太刀浴びせたところだった。いくら表皮から骨が近い部位とはいえ、丸太以上もの太さがあるそれを、一太刀で半ばまで切断するリプトンの手腕は見事と言える。もっとも、その偉業を成し遂げた本人は、その結果にとても納得しているとは言えない様子だったが。
 そして、斬られた淵猫も黙ってはいなかった。大きく振り上げ、体重と重力の乗ったその腕を、親の仇とばかりにリプトンに向かって振り下ろした。
「リプトンっ!」
 あんなのを喰らってはただでは済まないだろう。思わずリプトンの名を叫ぶが…
 私はその光景に唖然とした。
 リプトンは淵猫のその一撃を、左手に持ったマン・ゴーシュで受け止めていたのだ!
 …非常識な事この上ない。過去何度もリプトンの力技を見せつけられてきたが、先ほどの炎の切断といい、今のブロッキングといい、まさかリプトンがここまで常識はずれだとは予想もしていなかった。
 しかし、今の衝撃はリプトンの足元に敷かれている石畳を破砕し、足首を完全に埋もれさせていた。当の本人は何食わぬ顔をしているが、こんな攻撃を何度も喰らえば、いくら頑丈なリプトンといえども、体の各所に支障をきたすに違いない。
 それはそれで大人しくなっていいかもしれないが、後が面倒だ。私は先ほどから手に持っていた魔道書の、別の付箋を急いで繰る。
 私も手段をすべて失ったわけではない。冥魔からの脅威を退ける方法は、なにも倒すだけではないのだから。
 そのページを開いて、私は静かに呪文を紡ぎ出す…

  其は昏(くら)き処の淵に在りて
  総てを無に帰す写身(うつしみ)なり
  憂いの縛鎖 振り解き
  忘却の扉に明日を望まん

…冥転深影(アウトレット)
 淵猫の腕は、それを受け止めているリプトンを、今なお押し潰そうとしている。リプトンもなんとか堪えてはいるが、なにしろ上にいるのはあの巨体だ。いつまでも保つものではない。少しずつ圧力に負け、リプトンの左腕が下がっていく…
 珠の汗が、リプトンの額に次々と浮かんでいった。拮抗する力の大きさを想像するには、それだけで充分だった。しかし、そんな状態もいつまでも続かない。
「…くっ!」
 ほぼ無意識に、リプトンの口から苦鳴が漏れ出る。その腕に更に体重を乗せ、淵猫がリプトンを押し潰す力を増したのだ。
 一気に額に浮かぶ汗が増えた。いくらリプトンでも、これではもう長くは保ちそうにない。
 しかし、額の汗が一筋流れ落ちた、それからはまさに一瞬の出来事だった。
「い…いつまでも…」
 搾り出すように声を上げながら、リプトンは自分を押し潰そうとするその力の方向を、巧みなマン・ゴーシュ捌きで逸らし、
「いい気になってんじゃねえっ!」
 吼声とともに、その不完全な体勢からブレードを跳ね上げた。
 小気味良い音が、街じゅうに響き渡ったような気がした。
 支えを失った淵猫の腕は、リプトンを押さえつけていたそのままの力で、自らを地面に叩きつけた。そこに本来あるべき筈のものを、綺麗な切断面へと変えて…
 一瞬後、そこから大量の鮮血が迸り出る。その視覚的ショックからか、傷のあまりもの激痛からか、淵猫は大気を鳴動させるほどの絶叫を上げた。そしてそれは、淵猫の周囲で燃え盛る崩壊寸前の建物を、ことごとく瓦礫へと変えてしまった。
 その時になって、リプトンと私のちょうど中間くらいの場所に、仔熊ほどもある黒い塊が、鈍い音を立てて落ちてきた。リプトンが先ほど跳ね上げた、淵猫の手首だった。そして、それが合図だったかのように、淵猫に…いや、淵猫の足元に変化が訪れた。
 淵猫が、自らが作り出す影の中へと、ゆっくりと沈み込んでいくのだ。
 冥転深影…簡単に言うと、影を大きな扉へと転じ、冥魔を彼らが元いた世界…冥界へと送り返す呪文だ。制約が多いので使い勝手が悪く、つい忘れがちな魔法ではあるが、今みたいな状況ならば、その力を余すことなく発揮できる。
 足元が不安定な状況というのは、人の心を不安にさせる。その感覚は、どうやら冥界の住人でも同じらしい。ましてや、自分の影が、自分の体を際限なく飲み込んでいくという異常な状況だ。淵猫の絶叫は、驚愕、そして恐怖のそれへと取って代わった。
 すでに腰の辺りまで飲み込まれている淵猫は、何とかそこから這い上がろうと、必死になって腕を掻いていた。しかし、周りにあった足がかりになりそうな建物は、自らの絶叫が全て崩し去っていた。その瓦礫や地面に、運良く手が掛かったとしても、それは触れた先から自らを飲み込む影へと変貌する。その影の行き着く先を教えれば、安心もしようというものだろうが、そこまでしてやる義理など無い。
 淵猫は、その顔に悲痛なものを浮かべながら、その手で必死に空を掻いていたが、やがて長い、悲しげな叫声と共に、影の中へと沈んでいった。
 それこそ影も形もなくなった頃、リプトンは両手に持つ武器を収めた。しかし、張り詰めた緊張感はまだ解けない。火災がまだ続いている上に、自分たちがその真っ只中にいる以上、ここで気を緩めるのは自殺行為に等しい。
 リプトンが私の方を振り向いたそのとき、もうひとつの懸念事に思い当たる。
「…そうだ、ラティはっ?!」
 急いで空を振り仰いで見ると、ラティはちょうど最後の冥魔との決着をつけたところだった。そしてそこで力を使い果たしたのか、上昇気流を受け止める翼はその羽ばたきを止め、次第に落下を始めていた。
「リプトン、ラティをっ…!」
 言って振り返ったときには、すでにリプトンは走り出していて、あっという間に私の横を通り過ぎていった。しかし、間に合うかどうか微妙なところだ。間に合ったとしても、衝撃を受けつづけた今のリプトンの体で、あの高さから落ちてくるラティの体を受け止めるのはかなり厳しいだろう。いくらラティが軽いとは言っても、だ。
 間に合うかどうか分からない。だが、このまま何もせずに2人を放っておく事など出来はしない。急いで魔道書を手に取り、その呪文のページを開く。

  風受け止める小さき力…

 そこまで唱えた時、すでにラティは地面まであと10mの距離にいた。今からでは、私の魔法はもちろん、リプトンでさえ、どう頑張っても間に合わない!
「ラティっ!」
 あの高さから無防備な状態で地面に叩きつけられたら、それこそただでは済まない。しかも、今地面は石畳のように平らではなく、瓦礫が積み重なっている。打ち所が悪ければ即死もあり得る。
 半ば絶望的な心境になったそのとき、
天浮軽羽(フェーダー)!
 炎がたてる音に紛れて、声が…呪文を発動する声が聞こえた。
 直後、地面に叩きつけられる寸前のラティの体が、風に弄ばれる羽毛のように、宙に舞い上がった。このままでは、いずれ炎が作る上昇気流に乗ってしまい、空高く舞い上がっていくことになるだろう。
 天浮軽羽の効果時間はごくわずかだ。下手をすれば、はるか上空にまで舞い上がった時点で効果が切れかねない。ひょっとして、先ほどよりも状況が悪化したのでは?
 そう思って、私が慌てて別の魔道書を引っ張り出したその時、
「フザケんなぁーっ!」
 よく解らない罵声と共に、リプトンが大きく跳躍した。大空に逃れていこうとするラティの体を抱え込み、そのまま衝撃を殺すようにして着地した。が、それは私の予想通り、リプトンの体にはかなり響いたらしい。リプトンは、そのままそこに倒れてしまった。
「リプトンっ!」
 慌てて駆けつける…が、意外にもリプトンは元気だった。そう簡単にくたばる筈は無いのだが、一応声をかけておく。
「リプトン、お見事です。…大丈夫でしたか?」
「フォート、てめぇ…ラティを一体どうするつもりだった?」
「そんな…今のは私がかけた魔法じゃありませんよっ」
 …同じ魔法をかけようとしていたことについては、この際伏せておこう。
「それなら、今のは誰がかけたんだ?」
「お忘れですか? ここは魔法使いが多く住む街ですよ?」
「ほ〜ぅ、つまり魔法使いってのは、フォートみたいな間抜けが揃ってるってことか?」
「リプトンに言われるのは心外でしょうけどね」
 言い返しつつ、リプトンが身を起こすのに手を貸す。
「そんなことより、早く燃えてない場所に行きましょう。ここは熱くてかなわないですから」
「そうだな…さすがに俺も、今回はちょっと疲れた」
「ちょっとですか? それなら、ラティは頼みますよ」
 言いながら、私は踵を返し、炎の外へと歩き出した。もちろん、後ろから聞こえる罵声なんかには耳を貸さなかった。


 まだ一部で火は残っていたものの、消化・救助活動は一段落を迎えていた。
 街の南側が殆ど全焼してしまった現在、有効に機能しているのは街の北側の一区画だけだった。淵猫1体が暴れただけでこの有様だ。この1件で、相手がC級とはいえ、改めて冥魔の脅威を思い知らされた気がした。
 そんな街の北側でも一際高い建物…その3階のだだっ広い部屋で、リプトンと私は、油断すると埋もれそうなソファと格闘していた。
「なあ、フォート…」
「何ですか…リプトン?」
「これ…座りにくいよなぁ?」
「そう…ですねぇ…」
 リプトンが落ち着かなげに話し掛けてくるのは、何も座りにくいだけのことではないだろう。今は落ち着いたとはいえ、先ほどまで体を襲っていた鈍痛は、まだ綺麗に拭い去られたわけではない。その痛みを忘れるため…そしてなにより、今ここに居ないもう1人のことが心配で、こうして何かにつけて話さずにはいられないのだ。その心境に関しては私も同じだったので、敢えてその事について言及しないでおいた。もっとも、それを指摘したところで、リプトンは頑なに否定するだろうが。
 そのもう1人…ラティは今、この建物の別の部屋で療養していた。多少の火傷以外に大きな傷が無いのは何よりだった。疲労の蓄積からか、今はぐっすりと眠っている。充分な休養を取れば、自然と目を覚ますだろう。
 私たちがこんな場違いと言ってもいい場所に今居るのには、それなりの理由がある。あれから、とにかくラティを休める場所を探していたところ、先ほど天浮軽羽をかけた魔法使いが話し掛けてきたのだ。『是非、貴方たちを招待したい』と言って。
 とにかく休める場所を提供してもらえるのはありがたいし、その男…ガティマと名乗った…に特に怪しいところも無かったので、ついて行ってみると…
 到着したのが、街の中でもとび抜けて高い、この建物だった。
 ルーンマイン北魔法研究施設。
 それが、この建物の名前だった。北というからには当然南もあるのだが、そちらの方は、先の大火で脆くも崩れ去ったらしい。その南魔法研究施設に置いてあった大量の研究資料を、残っているだけでも確保すると言って、ガティマは私たちをこの部屋に案内するや否や、飛び出していったのだ。
 案内されたときに、『ご自由にお飲みください』とテーブルに置かれた薬草茶のポットは、最初は冷たかったのに、今はもう汗さえかいていない。中身の殆どはリプトンが飲み干し、私のグラスを半分ほど満たしているのが、その残りのすべてだ。
「しかし遅いよなぁ…あのガティマって奴は」
「そうですね…」
 研究者という人種は、物事に没頭すると時間を忘れる傾向が強い。あのガティマという男も、もしかしたら私たちのことなど疾うに忘れ去り、資料集めに没頭しているのかもしれない。
 そう思い始めたとき、下の階がなにやら騒がしくなってきた。
「帰ってきたのか?」
「意外と早かったですね」
 もちろん、もっと時間がかかると思っていたからこそこんな言葉を出したのだが、ガティマがここを飛び出してから、実に2時間以上が過ぎている。
 普通なら、散々待たされたことについて怒り出すようなこの状況で私たちが割と平然としているのは、体を休める場所を提供してもらったこともあるが、何よりも、研究者というのがどんな人種なのかを、過去の経験から知っていたからに他ならない。
 下から聞こえていたざわめきは、だんだん近づいてきて、やがてそれはドアの前を通り過ぎる。ノックの音を置き土産にして。
「やあ、どうです、くつろいでいますか?」
 ドアが開かれると共に、必要以上に上機嫌な男が部屋に入ってくる。ガティマだ。待たせて申し訳ない、などという様子はかけらも見せていないのが、いかにも研究者らしい。
「いや〜、あの火災だから、ひょっとしたら全部焼けてしまったんじゃないかと心配していたんですけどね、…あったんですよっ! なぁんと、保存処理された未開封のままのスクロールが、100巻もっ! さぁて、これから忙しくなるぞぉ! おっと、こうしてはおれん、私も…」
「…おい」
 今にも部屋を出て行こうとするガティマを、リプトンが呼び止めた。
「…や、これは失礼! お茶のおかわりですか? 今メイドに持たせますので…」
「いや…そうじゃなくてだな…」
「え〜と、それでは…?」
「何か俺たちに用事があって、ここに待たせていたんじゃなかったのか?」
「……、ああっ!」
 …本気で忘れていたらしい。何とも言えない虚脱感が全身を襲う。リプトンも、先ほどの戦闘よりも疲れたような顔をしていた。

 話が再開したのは、とにかく気を落ち着けようと薬草茶のおかわりを頼み、一息ついてからのことだった。
「いや申し訳ない、思いがけない物を見つけてすっかり舞い上がってしまって…」
「…いえ、それについてはもういいですから…」
 まだ少し疲労感を覚えながらも、私は先を促す。
「用件というのは何なんですか?」
「実は、2つほどあるんですが…その前に、フォート氏はこの街についてどの程度ご存知ですか?」
「魔法による文化が他の街よりも進んでいる、程度ですね」
「では、その辺りの説明もしながら話しましょう…こちらへ」
 ガティマは先に立って、リプトンと私を部屋の外へと促す。
「この北ラボは…ああ、『魔法研究施設』だと長いので、ここでは『ラボ』で通しているんですよ。それで、ここ北ラボでは、主に生活に根付いたところに応用できる魔法の研究をしているんですよ」
「南ラボでは何を研究していたんです?」
 廊下を歩きながら説明するガティマに、質問を投げかける。
「南ラボですか? 向こうでは、遺跡の探索とかで入手できた未知の魔法の解読作業が主な仕事でした」
 なるほど、それで未開封のスクロールか。
 階段を2つ降り、玄関ホールから右側の部屋に続く扉を開ける。
「これが、北ラボでの研究成果の数々です」
 自慢げに言うガティマが指し示すその扉の向こうには、魔法とは関係無さそうな…というよりは、場違いとさえ思える品々が陳列されていた。
「例えばこれですが…今、外ではこれが大活躍中なんですよ」
 足元にあるそれを手に取り、ガティマが言う。
「それは…火事なら水桶は活躍しますね」
「そうですね。でも、もちろんここに置いてあるからには、ただの水桶じゃない。フォート氏、試しにこれを持ってみて下さい」
 そう言って、もう1つ下に置いてある水桶を指差した。中はベイル通貨でぎっしりと埋め尽くされている。
「これは…相当重いんじゃないですか?」
 水桶の大きさから推測して、少なくとも20kgはあるだろう。ラティよりは軽いものの、片手で持ち上げるには難があるだろう。持ち上げ損ねて通貨をばらまくと後が大変だと思い、念を入れて両手でゆっくりと力をかける…
「…えっ?」
 殆ど空の水桶を思わせる軽さだった。20kgどころか、その10分の1の2kgほどにも感じない。
「驚きましたか?」
 驚きのあまり言葉が出ず、首を縦に振ることしかできない。それを満足そうに見たガティマは、これまた得意げに説明を始める。
「水桶の内側に入ったものに、天浮軽羽(フェーダー)の魔法がかかるようになっていましてね。それで、重さが極限にまで抑えられるようになっているんですよ」
 なるほど、よく考えたものだ。これなら持ち運びも楽になるだろう。魔法の力を物体に封入・維持する技術は遠い昔に紛失したと聞いてたが、ここまで見事に再現できるものなのか。
 そこに、リプトンの質問が飛んできた。
「あー、よく解らんが…つまり、荷物が軽くなるって事か?」
「そういう事ですね」
 実際それを使う側としては、それだけの認識で充分だ。
「それで、他にはどんなものがあるんです?」
 そいつぁすげぇな、とか呟くリプトンの声を背後に聞きながら、私はガティマに道具の説明を求めた。ガティマはと言えば、それに気を良くしたらしく、上機嫌で質問に答え始めた。
「たとえばこれ。この猫車(工事現場などで使われる運搬用の1輪車)は、荷台の部分に天浮軽羽がかけられていて、運ぶ荷物が軽くなります。それから馬の鞍。これは座る部分に天浮軽羽がかけられていて…」
「ちょ…ちょっと待ってください」
 何か嫌な予感がしてきた。
「あの、ガティマさん…他の魔法がかかっているものは…無いんですか?」
「あ…実は、今実用化出来ている魔法は天浮軽羽だけでして…」
 …嫌な予感の的中に、私は軽い眩暈を覚えた。
 つまり、こういうことか。
 このルーンマインという街は、天浮軽羽の封入技術1つで有名になっていたらしい。しかし、それ以外の魔法に関しては全く成果が上がっておらず、天浮軽羽の封入技術の応用品ばかりが増えていったのだ。
 もちろん、これは研究員の怠慢という訳ではなく、それほどに魔法封入技術というのが難しいものなのだ。しかし、私はもっと多数の魔法で応用化出来ていることを期待していたので、結果的に肩透かしを食らう羽目に陥ったわけだ。
 多分、大いに期待してここを訪れた他の魔法使いたちも、その事実に直面してショックを覚え、行く先々の街に着いても全てを話す気にはなれなかったのだろう。そして、『魔法文化が栄える街』というルーンマインの二つ名だけが広く伝わっていったのだろう。
「そこで、フォート氏!」
 急に、ガティマが言葉も強く語り出した。が、その後に続いた言葉は、私にはある程度予想がついていた。






魔道書物語 グリモワール 〜光闇の魔道書〜
第1話 第2話 ◆ 第3話 ◆ 第4話 第5話 第6話

魔道書物語 グリモワール 外伝
外伝1 外伝2



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