East End extra
- 幕間5 : 亨くんの弱点(後編) -

「何で俺がこんな目に遭うんだ? 俺が何か悪い事でもしたっていうのか?」
「…してるじゃん、いつも」
「なぁんだ、やっぱりそうだったんだね」
(颯たちの日常会話より)







 亨くんが立ち去ってからも、ぼくはその玉砂利の場所に立ち尽くしていた。
 とにかく、気になることがいっぱいあった。
 まず、千夏ちゃんが取り出した封筒。たったそれだけで、あの亨くんが慌てふためくなんて…何か亨くんに都合の悪いものでも入っているのかな? …何にも入ってないって可能性もあるけど、どっちにしても亨くんをあそこまでかき乱す手腕は、見事と言う他ない。
 それから、千夏ちゃんが遊びに来てることを、亨くんは明らかに知らなかったみたいだった。亨くんと遊ぶのが目的ならば、事前に連絡くらいするとは思うんだけど…いきなり遊びに来て驚かすくらいのことはやりかねない。何てったって、亨くんのイトコだし。
 そして、何より気になったのは、千夏ちゃんの異常なまでの身のこなし。普通の人間だったら、いくら頑張っても、屋根の上に跳び乗るなんて芸当は出来ない。ハイジャンプの世界記録だって3mいってないのに、千夏ちゃんは助走もなしに、軽くそれ以上を跳んでいた。
 何か仕掛けがあるんだと思うけど、それを訊くには、まず千夏ちゃんを捕まえないといけない。図らずも、亨くんや千夏ちゃんに強要されたからではなく、ぼく自身の目的で千夏ちゃんを捕まえることになってしまった。
「よしっ!」
 ぼくは1つ気合を入れると、やっとそこから動き出した…というか、そうでもしないと暑いことこの上なかったからなんだけど。
 亨くんの悲鳴が聞こえたのは、まさにその時だった。
「え? 今の…?」
 急いで予定を変更して、ぼくは亨くんの声が聞こえてきた家の裏側へと駆けていった。


 さっきの玉砂利の部分を突っ切って、更に奥に行ったところに現れたのは、江戸時代のものをそのまま持ってきたんじゃないかってくらいの、漆喰が施された立派な倉だった。まあ、ちょっと小ぶりではあったけど、確かにこの裏側に隠れたなら、家の屋根からじゃ見通せないだろう。
 そんな倉の裏側には、紅色の花を湛えている、背の高い木が生えていた。滑らかな樹皮を持つそれは、ぼくでも名前を知っている…サルスベリだった。倉の屋根の高さほどに張った枝が揺れて、花びらを散らせている。それが舞い落ちるのを目で追いかけていると、その途中に…
 …亨くんが逆さまになって固まっていた。
 ぱっと見ただけでは、空中に浮いているかのように見えた。けど、よく見てみると、かなり細い線が亨くんの足を捕らえて、枝から宙吊りにされているのが解った。日陰ということも手伝って、見えにくくなっていたらしい。しかし、よりにもよって宙吊りにされた木がサルスベリとは…
 その場でじたばたともがいている訳でもなく、ただじっと腕を組んで宙吊りにされている亨くんを見て、
「亨くん…そんなとこで何遊んでるの?」
 思わず口をついて出た言葉がそれだった。
「お前、これを見て遊んでるように見えるのか?」
 すぐさま亨くんは、憮然とした表情で言い返したけど…
「亨くんなら自力で脱出しそうじゃん? それなのにずっと逆さまになってるなんて、遊んでるとしか思えないよ」
 ぼくとしてはこう思ってしまうのだ。
「ピアノ線が素手で切れるわけないだろ!」
「…ほどくのも無理?」
「ああ、無理だな。結び目が固すぎる」
 それで開放される手立てが無いから、とりあえず腕を組んでじっとしているってのは亨くんらしいといえばらしいけど…
「亨くん、ぼくが来なかったらどうするつもりだったの?」
「まあ、来なければ颯1人で頑張ってもらうしかなかったんだが…実際来たんだからその質問は無意味だな」
 亨くんはしれっと言いつつ、ぼくが差し出したニッパーを受け取った。それから体を揺らして反動をつけると、次の瞬間には、鉄棒のようにぐるっと回り、両膝を木の枝に引っ掛けた体勢になっていた…器用だなぁ。
 その状態から、足に絡みついたピアノ線をニッパーで切り離し、もう一度体に反動をつけると、足を揃えて綺麗に着地していた。
 助かったよ、と言って亨くんは、何事も無かったかのようにぼくにニッパーを差し出した後、その場に座り込んでいた。
「どうしたの、亨くん?」
「…頭に血が上った」
 …枝の上にでも座ってればよかったのに。
「しかし颯、お前なんでニッパーなんて持ってたんだ?」
「え? いつも持ち歩いてるけど?」
「いつも? …夏目柚葉みたいな奴だなぁ」
 待て、それは聞き捨てならないぞ。
「ぼくはあの先輩と違って、常識的に持てそうなものしか持ってないよ」
「お前、常識的な人間がニッパーなんて持ち歩くと思うのか?」
 …亨くんは自分が常識を語れる人間だとでも思っているんだろうか?
 ぼくはあえてそれを指摘することはせずに、話題を切り替えることにした。
「それよりも、千夏ちゃんの後追わなくていいの?」
「…ちょっと急がないとやばいかもな」
 開始から20分余り経った腕時計を見ながら、亨くんがつぶやいた。

 罠から脱出して、亨くんはやっといつもの調子を取り戻し始めていた。
「ともかくこれで、千夏があの後ここを通ったのははっきりした」
「え? でも…始まる前から仕掛けられていた可能性もあるんじゃないの?」
 逃げている間に悠長に罠を仕掛ける余裕があるとも思えないし、こんな罠を短時間で仕掛けられるとも思えなかった。
「それは有り得ないな」
「どうして?」
「あの手の罠は、始まってから仕掛けることになっているし、千夏がそれを破った事は今までに1度だって無い」
 え? でもそれだと…
「その条件って、千夏ちゃんに不利なんじゃないの?」
「そう思うかもしれないが、俺たちが動き始めるまでの1分間に、千夏がどっちに逃げたかなんて解らないだろ? それに千夏にかかれば、それがどんな非常識に思える罠であろうと仕掛けられる…これが現実だ」
 亨くんは、後ろの…今まで自分が引っ掛かっていた罠を指差して答えた。
「…じゃあ亨くん、仕掛けられたばっかりの罠にも気付かずに引っ掛かったの?」
「………うるさいな」
 あ、機嫌損ねた。このまま放っておくとまた厄介な事になるので、ぼくは慌てて話題を元に戻すことにした。
「…それより、千夏ちゃんの話はどうなったの?」
「ん、そうだな…まずこの場所なんだが、家を中心に考えると、この位置は門の正反対の位置になる…それは解るな?」
「うん」
「で、スタート地点は家を正面から見て、裏手のやや左側…つまり、千夏の奴は、まず敷地を奥に移動したことになる」
 まあ、そう考えるのが妥当なところだな。
「俺がここに来るまでは、少なくとも千夏の姿を見なかった。となると、千夏は敷地を大きく右回りに逃げていると考えるのが普通だろう」
「まあ、そうだろうね」
「だが、この先は罠が幾つも仕掛けられていると考えていい…そこで、だ」
 亨くんはそこで一度言葉を切り、
「今度は颯が右回りに行って、千夏の足取りを追うことにする」
 堂々と言い放った。
「…それじゃあぼくが罠にかかっちゃうじゃん!」
「それは大丈夫だ」
 亨くんがこうやって言い切るときは、だいたいとんでもない答えが返って来るんだけど…一応訊いてみよう。
「…何が大丈夫なの?」
「罠にかかったところで、お前は今みたいに脱出できるだろ?」
 …やっぱりだよ。
「そんな、脱出できる罠ばっかりとは限らないじゃんっ!」
「その時はその時だ。まあ、颯なら何とかなるんじゃないのか?」
「そんな無責任な…この手のことで亨くんに出来ない事をぼくに期待しないでよ」
「いや、ピッキングが出来る颯のことだから、罠の解除だって造作も無いことなんじゃないのか?」
 言いたい事言ってくれるな…
「…それで、亨くんはどうするの?」
「俺は、これから真っ直ぐ門に向かう。いつものパターンからいって、まだ千夏の奴は移動しながら罠を仕掛けてる頃だ。反対側から行って出鼻を挫く」
「それって…なんか亨くんの方が楽な気がするんだけど…ちなみに亨くん?」
「ん、何だ?」
 どうしても気になったので、ぼくは丁度いいこの機会に訊いておくことにした。
「今までの戦績はどうだったの?」
「まあ、五分五分ってところだが…」
 …なんだかイヤな予感がした。
「千夏が罠を使うようになってからは1回も勝ってない」
「それじゃあ全然ダメじゃん!」
 暗澹たる気持ちになって叫んだけれど、それをまた亨くんが引き止めた。
「まあそう言うな。今回こっちには颯というダークホースがいる。まだ勝負の行方が見えた訳じゃないんだ」
「またそんな調子いいこと言って…あれ? 亨くん?」
 反論した頃には既にそこに亨くんの姿は無かった。
 他にどうすることも出来なくなったぼくは、仕方なくそのまま敷地を右回りに…幾つもの罠が待ち受けているだろう方向へと進み出した…


 少し歩くと、建設途中の小屋みたいなのが目の前に現れた。位置としては、敷地の右奥に当たる部分だった。屋敷からもかなり離れているし、何かの道具置き場にするにしては、造りが立派すぎる。
「…こんなところに何建てるんだろ?」
 その小屋に気を取られながら歩いていると、突然、足に何かを引っ掛かけた感触…
(罠だ!)
 咄嗟にそう感じたぼくは、慌てて1歩後ろに飛び退いた…その目の前を、幾本もの矢が唸りを上げて飛び過ぎていった。
「あ…あぶないなぁ!」
 あんなのが当たったら、ちょっと洒落では済まされない。ここに至って、千夏ちゃんが仕掛けた罠が、全て亨くん向けに作られた危険度の高いものであることを悟った。けど、それではまだまだ認識が甘かった。
 建設途中の小屋には、今後使われるであろう建材が幾つも立て掛けられていて…それが倒れないように張ってある綱を、今飛んでいった矢が見事に断ち切っていた。即席で造った罠にしてはかなり精度が高いと、千夏ちゃんを褒めてやりたいところだけど、その安定を失った建材がぼくに向かって次々と倒れてきた時点で、そんな悠長な事は言ってられなくなった。
 こういうとき、倒れてくる方向に対して脇に避けるのが一番手っ取り早い…んだろうけど、頭では解っていても、自分がそんな状況に陥ってみると、その場で慌てて逃げ惑うくらいしか方法が残されていないらしい。雪崩の如く次々に倒れてきた板が、頭を強かに打ちつけたとき、ぼくはそのことを初めて知った。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 目尻に涙が浮かぶほどの痛みに、ぼくは声も出なかった…というよりは、出かけた声を押し殺して、必死に痛みに耐えていた。建材が軽いものだったから痛いだけで済んだけど…やっぱりこれは「亨くん向け」というよりは、「亨くんさえ逃げ出す」レベルの罠なんじゃないかって、ぼくは再認識した。
 頭の痛みを堪えつつも、とにかくこの場から離れなければって思って、ぼくはなんとか立ち上がった。
 でも、悪い事は重なるものだ。そこから10歩も歩かないうちに、また足に何かが引っ掛かる感触を覚えた。何かって言っても、例によってピアノ線なんだけど…痛みを堪える方に意識が集中していたぼくは、そのまま足を1歩踏み出してしまい…
 完璧に罠にかかったと思ったその瞬間には、上から降ってきた金ダライが、ぼくの頭を強打していた。シンバルと銅鑼を足して2で割ったような、金属的かつ体に響く重低音が、(恐らくは)薙原邸の敷地全域に響き渡った。
 頭に手を置いていた状態だったから直接頭には当たらなかったけど、それでもその衝撃は手を通して頭に響いていた。でもそれ以上に、耳から入ってくる金ダライの衝突音のほうが、頭の痛みを余計に増やしていた。
 さっきの罠を回避出来ていたのなら、これにも引っ掛からずに済んだんだろうけど…これは、ぼくの迂闊さを呪うべきなのか、千夏ちゃんの周到さを褒めるべきなのか…
 まだ痛む頭を庇いながら、もう1歩先に踏み出しかけ…また罠にかかるんじゃないかと思って、踏み止まった。もう少し注意深く周りを見ていけば、仕掛けられている罠も見つかるんじゃないかって思いと、残された時間が少ない今、あまり悠長な事はしていられないという思いが、立ち止まったぼくの頭の中で交錯した。
 どうしたものか…そんな風に思っていたそのとき、不意にぼくの頭にその考えが浮かんできた。
 これだけぼくが罠にかかってれば、千夏ちゃんだって亨くんかぼくが追ってきているってことに気付くはずだ。2人いるから、挟み撃ちされるなんてのは当然予想するはず…とすると、途中から逃げる方向を変えたっておかしくないんじゃないか?
 もちろんそうじゃない可能性だってある。けど、その可能性に賭けたぼくは、この先やっぱり罠が数限りなく仕掛けられているであろう方向から、一路、屋敷のある方向へと進路を変えた。


 雑然として…それでいて綺麗に立ち並ぶ木々の間を何とか抜けていると、その進む先から、何か声が上がるのを聞いた。そのまま木々を傷めないように走り抜け、屋敷が見えるようになった頃。ぼくは、その選択が正しかったことを知った。
「千夏っ、大人しく捕まれ〜っ!」
「やだよぉ〜っ!」
 玄関の方から、こっちに近づいてくる2人の声が聞こえてきた。亨くんの聞き慣れた、まあ…いつもの口調に対して、千夏ちゃんの声は何て言うか…必死ではあるんだけど、ちょっとふざけた調子が混ざってるような、そんな感じがした。この勝負が始まる前、つまり初めてその声を聞いたときからそんな感じはあったから、多分これは千夏ちゃんの地だとは思う…まあ、それはいいとして。
 千夏ちゃんの声に比べて、亨くんのそれが必要以上に大きいく聞こえたのは、多分ぼくに知らせるためだと思う。んだけど…2人の姿を目にしたぼくは、しばし言葉を失った。千夏ちゃんを追い掛け回す亨くんのその姿は…傍から見れば、まだ年端のいかない少女を、棒を持って追い立てるただのアブナイ人に見えた。
「と、亨くん…あの…」
 さすがに見かねて声を掛けたけど…
「颯、いいところにっ! 千夏を捕まえろっ! 早くっ!」
「わわっ、ずるい〜っ!」
 言ったところで聞くような状況じゃないと思い直して、ぼくも千夏ちゃんのほうに走り出した…自分も傍から見ればかなりヤバイ奴なんじゃないかと自覚しながら。それにしても、自分から条件を出しておきながら「ずるい」は無いもんだ。
 走り出したとは言っても、やっぱり手入れの行き届いた木々を気にしながらだと、当然その速度も落ちる。木々の間からぼくが抜け出した頃には、千夏ちゃんはぼくの目の前で、屋敷に沿って左へと走り込んだ。
 それを見るなり、
「颯っ、そっち頼む!」
 亨くんは声を上げたかと思うと、手にした棒を地面に突き立てて、棒高跳びよろしく屋根の上へと跳ね上がった。また器用な真似を…とにかくぼくは、その亨くんの妙技を横目に捉えながら、千夏ちゃんの後を追った。
 頭の両脇で結わえた長い髪と、翻るデニムのミニスカートの裾が、屋敷の裏手へと消えていく。意外と素早い千夏ちゃんの後を必死に追いかけて、ぼくも屋敷の角を曲がった…そのとき。
 急に、妙に乾いた金属音と共に、顔面に衝撃が走った。
「……っ!」
 目から星が出て、たまらずぼくはひっくり返った。
 今日こんなのばっかりだと思いながら、顔面を手で押さえて、その隙間から涙目になってそれを見ると…屋根の端からピアノ線で吊り下げられたそれは、ぼくの顔の位置に絶妙に設置されたフライパンだった。一体いつの間に…
 そのフライパンの先を、千夏ちゃんは屋敷に沿って悠々と逃げていき…急に、屋敷から離れるようにその向きを変えた。直後、直進してたら捕まったであろう位置に、亨くんが飛び降りてきた。そのまま2人は、ぼくが現れる前と何ら変わった様子もなく、追走劇を繰り広げていた。
 ここに至ってぼくは、このルールがいかに過酷なものであるかと、千夏ちゃんのタフさを思い知った。それまでぼくは、千夏ちゃんは罠だけで亨くんから逃げ切っていたのかと思っていたんだけど…とんでもない。少なくとも千夏ちゃんの身体能力は、亨くんのそれとほぼ同等と言っても間違いじゃないだろう…亨くんが負け続けるわけだ。
 …もしかして、亨くんは本気でぼくのことを期待していたのかもしれない。そうなると、ぼくもいつまでもこんなところでひっくり返ってる訳にはいかない。勢いをつけて起き上がり…考えた。
 千夏ちゃんが逃げるとすれば、この先敷地を右回りするか左回りするかのどっちかしかない。もし千夏ちゃんが左回りに逃げると、そっちには全く罠が仕掛けられてなくて、本当にただ走って逃げ回るしかなくなる。でも右回りなら…亨くんとぼくが幾つか引っ掛かったとはいえ、まだ残っている罠もあるだろう。千夏ちゃんに勝算があるとすれば、右回りに逃げるしか有り得ない。
 底まで考えて、ぼくは自分の予想が当たっていることを祈りながら、元来た道を急いで戻り始めた。


 再び、ぼくはさっき連続で罠にかかった場所へと戻ってきていた。
 落ち着いて見てみると、それは惨憺たる状況だった。建材は辺りに散らばり放題、建設途中の小屋の柱には矢が数本突き刺さっており…へこんだ金ダライが転がっている。そして、さっきは気が付かなかったけど、よく見ると…未だに至るところに縦横無尽に張り巡らされた、ピアノ線の数々…ここでたった2つの罠にしか引っ掛からなかったぼくは、もしかしてかなり幸運だったのかもしれない。
 また罠にかからないように、慎重にその位置を確認していると、すぐに向こうから2人の声が聞こえてきた。とりあえずぼくの読みは当たっていたようだ。真っ正直にそこにいたのでは、ぼくが千夏ちゃんを捕まえられる可能性は恐ろしく低い…そう考えて、ぼくは2人に見つかる前に、素早く小屋の陰に隠れた。
 恐らく千夏ちゃんは、罠が多数仕掛けられているこの一帯に入り込んでくる筈だ。そして自分で罠にかからないように、その逃げ足も自然と遅くなる筈…ぼくに勝算があるとすれば、その1点のみだった。
 声が近づいてくる。追いかける亨くんも追われる千夏ちゃんも、体力は無尽蔵である訳がなく、さすがに2人とも息が上がっている。時計を見ると…あと5分。この微妙な残り時間も、ひょっとしたらぼくに味方してくれるかもしれない。
 気付かれないように必死に息を殺して、小屋の陰に潜み…千夏ちゃんが小屋の少し手前にさしかかったその瞬間を狙って、ぼくは一気にそこから飛び出した。
「わっ! そ、そーちゃんっ!?」
 急に飛び出したぼくの存在は、僅かながらも、千夏ちゃんに動揺を誘っていた…と思う。周囲に張り巡らされた罠がある以上、千夏ちゃんもその動きが制限される筈だ。ぼくは半ば勝利を確信して、千夏ちゃんを捕まえるべく、手をいっぱいに伸ばした。
 しかしさすがは千夏ちゃんと言うべきか…驚きはしたものの、千夏ちゃんは伸ばしたぼくの手をするりと躱し、更にこともあろうに、ぼくの脇をするりと通り抜けた。そのまま背後に回り込まれたら、ぼくが千夏ちゃんと亨くんの間に入り込むことになり…それはつまり、亨くんの追撃を邪魔することになる。残り時間が少ない今、その状況は、ぼくたちの敗北を意味する…
 と、そこでぼくはその事実に気がついた。
 千夏ちゃんがわざわざぼくの側ぎりぎりを通ったということは、すぐそばに罠が仕掛けられているということだ。振り返ってそこを見ると…千夏ちゃんのすぐ向こう側には、僕を取り囲むように、ピアノ線が張り巡らされていた。ここに亨くんが突っ込んでくれば、亨くんもろともぼくは、ここに仕掛けられた罠に捕らえられて、その瞬間に勝負が決することになるだろう。
 焦りにも似た…いや、実際焦りだったと思うけど…感覚が生まれたその瞬間、本当に偶然に、千夏ちゃんの向かう先に張られた縦に伸びるピアノ線を、ぼくの目は捉えていた。千夏ちゃんは、まるでそのピアノ線に吸い込まれるように近づいていく…
 それに自然に反応したかのように、ぼくは常日頃から幾つも持ち歩いている南京錠のうち1つを、ポケットから取り出した。そのまま身を翻し、ぼくにしては流れるような動作で、その縦に張られたピアノ線と、千夏ちゃんのライトオレンジのキャミソールのストラップをまとめて施錠した。
「わっ…!?」
 その引っ張られる感覚に、千夏ちゃんは事態を把握したらしい…が、時すでに遅く、千夏ちゃんは自分で自分の仕掛けた罠に引っ掛かる事になった。縦に張られたピアノ線は、勢いに乗って大きく引き下ろされ…千夏ちゃんとぼくの頭の上に、大量の水をもたらした。
 ずぶ濡れになった千夏ちゃんは、もはやそこから逃げる事をせずに座り込み、
「あはははは、負け、千夏の、負け〜」
 声を上げて笑っていた。
 ぼくはと言えば、そんな千夏ちゃんをしばらく呆けたように見た後…同じように、つられて笑い始めた。
 そんな中、ただ1人亨くんだけが、少し離れた場所に立ち、ずぶ濡れになって笑っているぼくたち2人を呆れたように見ていた。
 こうして、前代未聞の鬼ごっこ(って言えるのか、これ?)は、ぼくが千夏ちゃんを捕まえるという、ちょっと予想外の結果で幕を下ろした。


 亨くんからバスタオルを貸し与えられたぼくは、夏の日差しも鋭い縁側で、とりあえず体中の水分を拭き取った。この暑さだから、それだけで服はすぐに乾いた。
 ふと横を見ると、亨くんも同じようにバスタオルを頭からかぶっていた。
「あれ? 亨くんは別に水かぶってなかったんじゃない?」
「棒術の修練だけでも汗だくだってのに、そのすぐ後にあれだっただろ? 仕方ないから俺も裏の井戸で水かぶってきた」
 よく見たら、服も藍染めの胴着から普段着に変わってる。井戸で水をかぶるってのもいかにも亨くんらしかったけど、でも…
「シャワーでも使ってきたらよかったのに…」
「それは千夏が使ってる」
「あ…」
 無意識のうちに想像してしまい、ぼくは自分でも頬が赤く染まっていくのを実感して…慌てて亨くんから顔を背けた。
「ん? どうした、颯?」
「な、なんでもないよっ!」
 …解ってて訊いてるに違いない。絶対!
「? 何してるの、とーるちゃん?」
 不意に背後からかけられた声に振り返ると…まあ、「とーるちゃん」なんて言った時点で誰かは解ってたけど…千夏ちゃんが、頭をバスタオルでごしごしやりながら縁側に立っていた。
 と、そこで亨くんが例のイタズラっぽい笑みを口元に浮かべ…
「ああ、それがな、千夏…実は颯のやつがな…」
「そーちゃんがどうしたの?」
「亨くんっ!」
 ぼくはもう顔中を真っ赤にして、亨くんの次の言葉を阻止していた。でも千夏ちゃんはそんなぼくの様子を特に気にした様子もなく、
「それよりとーるちゃん、」
 相変わらずバスタオルで髪を拭きながら、話題を変えた。
「ん、何だ?」
「さつきちゃんが、折角みんな揃ってるんだからスイカでもどうぞ…だって」
「…解った、取りに行けばいいんだな?」
 言って、亨くんは縁側に上り、家の中に歩いていった…「おーい、母上ー?」とか言いながら…もちろんさつきっていうのは、亨くんのお母さんの名前だ。
 それを見届けてから、千夏ちゃんは縁側に足をぶらぶらさせながら座って、
「じゃあ、約束だから…」
 唐突にそんな事を言った。
「え?」
 訳も解らず、ぼくは訊き返す。
「封筒の中身。教える約束だったよね?」
「あ…そうか」
 ようやくそのことを思い出したぼくに向かって、千夏ちゃんが右手で縁側をぽんぽん、と叩く。それが「隣に座れ」という合図であることに気付いて、ぼくは…それでも何度か逡巡して、やっと1人分くらいの間を空けて、同じように座った。よくありがちな、女の子と肩を並べて座るのに、恥じらいじみた抵抗感の表れだったんだけど、千夏ちゃんはそんな事を全く気にした様子も無く、ずいっ、と体を寄せてきた。
 そこでもう一度、千夏ちゃんは家の奥に目を遣って…恐らく亨くんがいないのを確かめてから、
「あのね…」
 ぼくの耳に囁きかけてきた。その日会ったばかりの女の子に、いきなり耳もとで囁かれるなどというそんな状況に、ぼくは半ばパニックを起こし…結果、それはただの音の羅列として、左耳から右耳へと通り過ぎた。
「…えっ?」
 そんなぼくの様子を面白がるように、千夏ちゃんは目を少し細めて、それからもう一度…恐らく同じ事を、ぼくの耳もとで囁いた。
 今度はしっかりとその内容を理解し…理解したからこそ、ぼくは思わず千夏ちゃんをまじまじと見つめてしまい…
「そ…そうなんだ」
 たったそれだけを口にするのが精一杯だった。千夏ちゃんはそれに対してひとつ頷き、まだ乾ききっていない髪の奥から笑顔を向けてくる。その笑顔に、ぼくは自然と頬が緩んでいくのを感じ…
 そこに、家の奥から足音が聞こえてきた。
「参ったよ、母上には…普通スイカを繊切りになんかしないよなぁ?」
 有り得ない…常識的にそんなこと有り得ないはずだ…亨くんの声を聞いて、そう思いはしたんだけど…亨くんが手にした盆の上には、山と盛られた繊切りスイカが、これでもかってくらいに自己主張していた。
「亨くん、まさかそれって…」
「1個分」
 言いながら亨くんは、縁側にどかっと腰を落とし、目の前に盆を置く。
「まあ、スイカには違いない。ほら、塩だ」
「でも亨くん、これ…持つところ無いんだけど…?」
「どうせ後で手はべたべたになるんだ、気にするな」
「気にするなったって…」
 ふと横を見てみると、千夏ちゃんがさも当然そうな顔でスイカをつまみ上げ、塩を振って口に運んでいた。しかも、種を出してない…
「ち、千夏ちゃん…種は…?」
「え? スイカの種って食べるもんじゃないの?」
「颯、お前種食わないのか?」
 よく見ると、千夏ちゃんどころか亨くんまでもが、それが当然と言わんばかりに、スイカの種をばりぼりと噛み砕いていた。
「いや、あの…」
 繊切りスイカに加えて、種まで食べるという芸当を見せられて、ぼくは呆気に取られるしかなかった。でも亨くんは、例によってそんな事気にした様子も無く、およそスイカを食べているとは思えない咀嚼音を出しながら、次のスイカに手を伸ばした。
 ひと口かぶりつき、またばりっ、と音を立てながら、
「ところで千夏、」
 切り出した。
「なに?」
「さっきの封筒の中身、ありゃ何だったんだ?」
「?」
 千夏ちゃんは、そう問い掛けた亨くんの顔をまじまじと見つめ…それでいてスイカを食べるのは止めもせずに、
「なんでそれをとーるちゃんに教えるの?」
 あっさりとそれだけ言ってのけた。
「なんでって、お前捕まっただろうが?」
「千夏はとーるちゃんには捕まってないよ? そーちゃんに捕まったんだから、そーちゃんだけにしか教えないよ」
 千夏ちゃんはそう言いながら、平然とした顔で繊切りスイカを口に運ぶ。
「なんだそりゃー!」
 まあ、亨くんがそんな風に文句言うのも解るけど。
「そういえば…確かに、亨くんとぼくが組になるなんて、事前に言ってなかったよね」
「そりゃ確かに言ってなかったけどなぁ、今回のはそういった条件を出す前に始まっただろ?」
「でもさ、いつもだったら亨くん、それでも条件突きつけるの忘れないじゃん。亨くんにしては珍しいけど、これは亨くんの失策ってことなんじゃない?」
 ここまで言って、亨くんも自分に分が悪いことを悟ったらしく、
「解った、じゃあそのことはもういい」
 割とあっさりと引き下がった。
 こういうときの亨くんって、たいてい何か企んでるんだけど…とりあえずそれは気にしないことにして、
「じゃあ亨くん、勝負も終わった事だしさ」
 今日ここに来た本来の目的を遂げるべく、ぼくは話を切り出した。
「そろそろ夏休みの宿題、始めようよ」
「ん、そうだな…」
 そこでちょっと言葉を止めて、亨くんは口元に笑みを浮かべ…
 あ、まさか…
「よし、千夏も手伝え」
 …あ、やっぱりそう来たか。
「え〜、千夏は関係ないよ〜」
「千夏だって夏休みの宿題くらいあるだろ?」
「そんなの持って来てないもん!」
 …それ以前に、宿題無いんじゃないのかなぁ?
「それにとーるちゃんの学校とは宿題の内容だって違うんじゃないの?」
「どうせ1年の授業内容なんて、他の学校でも大して変わりゃしないだろ」
 まー、そりゃそうだろうけど…
「いいから手伝え」
 何が何でも手伝わせるつもりなのか、それともさっきの仕返しのつもりなのか、亨くんは全く引く様子を見せない。
 どうでもいいから早く宿題済ませようよ、って口を開きかけたその時、千夏ちゃんの目が突如、剣呑な光を宿し、
「そんなに手伝わせたいんだったら、また勝負する?」
 なんて、とんでもないことを言い出した。
「面白い、受けて立とう」
「亨くん、…お願いだからそれだけはやめて」
 このままでは、本当にまた勝負を始めかねない勢いの亨くんを、ぼくは必死の思いで止めていた。
「なんだよ颯、まるで宿題しに来たみたいに…」
「宿題しに来たんだってばっ!」
 亨くん、本気で約束忘れてないか?
「わかった…じゃあ、勝負は30分に短縮するから…」
「それでもだめっ!」
 放っておいたら何回も勝負を繰り返しかねない。まるで子供を叱るように言い放って、まだ勝負をしようとする亨くんを、ぼくは強引に部屋へと引っ張っていった…


 8月21日。
 おそらく、どこの公立学校でも共通の、夏休み中の登校日。公務員の給料日が21日だからこの日に設定されているという、割ともっともらしい話を聞いたことがあるんだけど…実際どうなんだろう?
 いつものように教室にみんな…いや、14HRの3分の2の生徒が集まったところで、これまたいつものように水元先生が教室に入ってくる。
 ところが今日は、登校日という事以外はすべていつも通りの中で、いつも通りじゃない存在が、水元先生の後についてきていた。白地に紺の襟のセーラー服。ごく普通に見かけるその制服が、男女共に濃緑のブレザーであるこの東高校では、かなり浮いた存在だった。
 転校生だ、という決り文句があちこちで囁かれる中、それが今日であったことに多少驚きつつ、ぼくは顔に自然と笑みが浮かんでくるのを感じていた。
「まあ…見てのとおり、転校生だ。ほれ、挨拶」
 水元先生に促されて、すぐに自己紹介に入るかと重いきや、その転校生は、頭の両脇で結わえた長い髪を揺らしながら黒板に向き直り、徐に白のチョークを掴んだ。転校生が黒板に向かって何か書くといえば、まず自分の名前に間違いない…んだけど、その転校生の次の行動には、恐らく教室内の誰もが度肝を抜かされていた。
 何故って…ひょっとしたら145cmもないんじゃないかっていう背を思いっきり伸ばしながら、チョークの腹を使って黒板の真ん中を大きく塗りつぶしていったりすれば、「いきなり何してるんだ?」って思うでしょ?
 これから何が起こるのかと、固唾を飲んでみんなが注目する中で、その転校生は続いて黒板消しを手にとり、今塗りつぶした白を綺麗に拭き取っていった。
 何か特別な事をしたようには見えなかった。何らかの仕掛けがあったんだとは思うけど、誰一人として、それを見抜いていなかったみたいで…ともかく、何が起きたのかって言えば、転校生が黒板消しをかけ終えたそのあとには、
 斉藤千夏
 の4文字だけが、その形を残していたのだった。
 それを後ろ手にびしっと指しながら、
「斉藤千夏です。2学期から宜しくお願いします」
 その転校生…千夏ちゃんは、みんなが驚嘆の声を上げる中、何事も無かったかのように挨拶した。でも、千夏ちゃんの挨拶はそれだけでは終わらなかった。
「特に!」
 更に一声上げた千夏ちゃんは、亨くんとぼくのほうをびしっと指差して、
「とーるちゃんにそーちゃん、宜しくっ!」
 それまで千夏ちゃんに向いていた視線は、そのひとことで、一斉に亨くんとぼくの方に集中していた。
(なんだ、薙原の知り合いか?)
(そーちゃんって、水嶋くんのことだよね?)
 …とか囁かれる声の中、ぼくは苦笑しながら後ろを…亨くんの方を見ると、亨くんは額に手を当てながら、
「……頭痛ぇ〜」
 机に突っ伏していた。
「薙原、知り合いか?」
 意地悪そうな笑みを浮かべながら言う水元先生に、しかし亨くんは、
「先生…知ってて言ってるでしょ?」
 疲れきった様子で、机に突っ伏したまま言った。そして、ぼくの方に目だけを向け、
「颯…これから毎日が大変な事になるぞ…」
 と、力なく呟いた。
 けど、そんな亨くんの珍しい姿を目の当たりにしながらも、これから何かと面白い事が起こりそうな予感に、ぼくは自然と笑みを浮かべるのだった…




East End extra - "Enter SAITOH Chika" … end


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