East End extra
- 幕間4 : 亨くんの弱点(前編) -

人は誰しも弱点を持っているものだ。
もちろんそれは、亨くんだって例外じゃない。
けど…それが同時にぼくの弱点になるとは思わなかった。
(東高校14HR・水嶋 颯の日記より)







 まだ午前中とはいえ、今日もこれから蒸し暑くなることを感じさせる…夏休みも中盤に差し掛かった日のことだった。
 東高校へと向かういつもの道は、さすがにあの時…遅刻しそうになって汗だくになって自転車を走らせたあの時…とは違って、車の量こそ多かったものの、むしろ閑散とさえしていた。
 いつもは横断歩道を渡ってそのまま正門へと入っていくのを、しかし今日は素通りする。登校日でもなければ模擬戦の日でもない今日は、とりあえず学校には用がない。そのまま、フェンス沿いに走って、ぼくは東高校の裏へと回り込んでいった。
 そこで一度、自転車を止める。
 正門側のちょっと拓けた感じとはうって変わって、裏門側には、細い道1本を隔てて、今にも圧し掛かってきそうな雰囲気の山が、その腰を据えていた。セミの張り上げる声がより一層密度を増して…それがかえって、夏の蒸し暑さを和らげているような、そんな気がした。
 そのままぼくは、麓に沿って自転車を引き…やがて姿を現した山の入り口に、足を踏み入れていった。
 舗装どころかろくに整備もされていなく、深く轍の残ったその道は、例え自転車を引いてなかったとしても、とにかく歩きにくい。無理すれば自転車で登れないこともないんだけど、前にそれで前後輪ともパンクした苦い記憶が脳裡をかすめて…ぼくは汗をかきながら、歩いてその坂道を登っていった。
「いつも思うけど…ここって…長い…」
 とにかく辿り着くまでが長い。入り口から延々と10分くらい、ひたすら悪路だけが続くのだ。途中には街灯も店も、それどころか人家さえも、とにかく何も無い。その上この蒸し暑さだ。山道に入ってからは、少しは涼しく感じるようにはなったものの、だからといって暑くない訳じゃない。
 頬と背中を伝う汗を疎ましく感じながら、そろそろ一休みしたいと思った頃に、それは堂々とした存在感をもって、ぼくの目に飛び込んできた。
 低い石垣の上に、漆喰で塗り固められた真っ白な塀。手入れが行き届いているらしく、ひびも入ってなければ蔦も絡まっていない。周りの鬱蒼と茂る木々からは、とにかく浮きまくった世界が、そこにはあった。
 塀伝いに自転車を引いていき、街の中で言えば一区画ほど移動すると、やっと塀が途切れる場所が来た。檜造りの大門だった。この先、また一区画ほど塀が続くんだから、この屋敷は呆れるほどの敷地を持っていることになる。
 門の脇には、少し屈んで通れるほどの、小さな通用口がある。門の大きさの割には慎ましい大きさの表札が、そこには取り付けられていた。

『薙原』

 もちろん、ここは亨くんの家だ。
 何度来てもこの門には圧倒されるものだから、ぼくは少し息を吸いこんでから、敷地内に足を踏み入れた。いつものように、門を入ってすぐのところに自転車を止め、そこから真っ直ぐ奥へと敷き詰められている石畳に沿って、ぼくは玄関へと歩いていった。
 家の造りも、家を取り囲む塀と同じように大仰なものだった。平屋の割には屋根が高いのを毎度不思議に思いながらも(多分そういう造りなんだろう)、ぼくは玄関脇の呼び鈴を鳴らした。
 …返事が無い。
 おかしいなぁ、いつもならすぐに亨くんかおばさんが出てくるのに…
「お〜い、亨く〜ん」
 インターフォンでもないただの呼び鈴だから、声を出しても無意味なのは解ってるんだけど…何度押しても出てこないとなると、試さずにはいられない。
「亨くんってば〜!」
 何度か呼んでみたものの、やっぱり玄関に出てくる気配すらしない。ちゃんと約束しといたから、留守ってことは無いと思うんだけど…どうしたんだろ?
 と、その時。
「あれ、何だろ、今の…?」
 何か、音が聞こえたような気がして、ぼくは耳を済ませてみた。すると…
「やっぱり、何か聞こえる…」
 何の音かは解らないけど、それは確かにぼくの耳に届いていた。どうも、家の裏のほうから聞こえてくるみたいだった。ちょっと周りを見回してみて…玄関の左側に、裏手に回れそうな小道があるのをぼくは見つけた。両脇にはちょっとした生垣が並んでいて、かなり風流な造りになっている。
「…行って…みようかな?」
 ぼくは少し躊躇いながらも、そこに足を踏み入れていった…


「亨く〜ん? どこ〜?」
 なんて亨くんを呼びながらその道を歩いていくと…段々と大きくなっていくその音が何なのか解ってきた。棒状のものが風を切る音、木と木が打ち合わさる音、それらに混ざって響いてくる、2人の声…
「どうした亨、もう終わりか?」
「くっ…まだまだぁっ!」
 視界が開けた。途端に、今まで聞こえていた音と声が、鮮明に響いてくる。玉砂利の敷き詰められたその一角では、藍染めの胴着に袴、手に構えた棒といったスタイルの2人が、見事な舞いにも似た組み手を繰り広げていた。1人はもちろん亨くん。もう1人は、何度か会った事がある…亨くんのおじいさんだ。
 見た目よりもかなりハードな組手であることは、亨くんの表情と、全身に浮かび上がる玉の汗を見ていればよくわかる。ただ、おじいさんとの間には、いまだにかなりの実力差があるみたいで…おじいさんの方は、汗らしい汗もかいていなければ、呼吸も殆ど乱れていない。或いは弧を描き、或いは鋭く直線を描く亨くんの打ち込みは、すべていとも容易く弾き返されていた。
 一際強く打ち込んだ後、亨くんは一度大きく間を開け…そこで、初めてぼくがそこにいることに気がついたようだ。
「…颯? こんなところに、どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃないよ。今日は一緒に夏休みの宿題片付けることになってたじゃないか」
「あ? それ明日じゃなかったか?」
「もー、自分で言っといて忘れないでよ…」
 亨くんは、こういった約束はしっかり守るほうなんだけど…自分の家が待ち合わせ場所とかになると、たま〜にこうやって忘れることがある。
「ん〜…だが、まだ今日の修練は終わってないんだよなぁ…」
 それは見ればわかる。
「…颯、悪いが、俺の部屋で待っててくれないか?」
「それは構わないけど、あとどのくらいかかるの?」
「そうだな、あと…30分程度…」
 と、そこまで言いかけたとき、亨くんのおじいさんが口を開いた。
「亨、あまり待たせるのも失礼だろう…今日の修練はここまでにする」
「あ…ありがとうございます、老師!」
 棒を小脇に抱えて一礼した亨くんを見て、おじいさんは踵を返し、庭の奥へと歩み去っていった。
 それにしても。
「亨くん、『老師』って? いつもは『じーさん』って言ってなかった?」
「修練の最中は俺の先生だからな。武術っていうのは、まずそういう心構えをすることから始まるんだよ」
 ふーん、そういうもんなの? 格闘技っていうと、どうしてもTVで見る『あーいうの』を思い浮かべるもんだから、心構えとか言われてもあまりピンとは来ない。
「でも確か亨くんとこって…おじいさんと亨くんの2人しかいないんじゃなかった? 弟子が何人もいるのならそーいう話も解るけど…」
 そう、薙原流棍術は、亨くんのおじいさん・薙原透矢(なぎはらしずや)氏が、元は槍術だったのを棍術へと作り変えたものだ…と、亨くんから聞いたことがある。
「流派の大小を気にするようなのは、所詮口先だけの武術だ。肝心なのは、その在り方…解るか?」
「そんなこと言われても…」
 と、ぼくが言いかけたと同時に、別の声が上がった。
「ふふふふ…もっともそうなこと言っても、それってしずやちゃんの受け売りじゃない?」
「…っ、その声はっ!」
 一声叫んで、亨くんは「ばっ」と声のした方向に振り向いた。
 そんな異常なまでの反応ぶりに驚きながらも、ぼくも亨くんのその視線の先…上を見上げた。真夏の陽光に照り映える屋根瓦が綺麗に並ぶ、その縁に足を投げ出して座っていたのは…長い髪を両横で結わえた、見た目にもかなり小柄な女の子だった。
「とーるちゃん、元気だった?」
「千夏!…お前、何故ここに?!」
 まるで暑さにやられたかのように、亨くんはその場でふらついてみせた。…なんか、すごく珍しいものを見ているような気がする。
「何故って…ひどいなぁ、とーるちゃんがいつまで経っても遊びに来ないから、千夏の方から遊びに来たっていうのにぃ…」
「頼んでない。帰れ」
 亨くんは額を抑えながらも、それでもびしっと言い放ち、その…千夏って子の言い分を無下にする。でも何ていうか、いつものキレが感じられない。
「それに、お前の相手をしてる暇は無いんだよ」
「どーして?」
「こいつと一緒に夏休みの宿題片付けることになってるからだ」
「忘れてたくせに?」
「ぐぁ、お前いつからそこに居たんだよ?!」
 …完全に手玉に取られてるなぁ。
「ところでとーるちゃん?」
 千夏って子は、亨くんのそんな様子になど全然お構いなしに、
「その隣の人、だれ?」
 なんて言ってのけた。誰って言われても…確かに初対面だけど、彼女が何者か知りたいのはぼくのほうだって一緒だ。そういう訳で、ぼくも亨くんの方に視線を向ける。そして当の亨くんはというと、観念したかのように口を開いた。
「解った、紹介しよう。まずこいつは…」
 と、ぼくの方をおもむろに指差した。
「水嶋颯。数少ない俺の理解者にして親友だ」
 面食らった…というか、同時に色んな感情がぼくに襲い掛かった。少なくとも、ぼくの今までの人生で、こんな風に紹介された事なんて一度も無い。だから亨くんにそう言う風に思われていたことにまずぼくは驚き、親友と呼ばれたことに更に驚き、そして照れ臭くなった。
 で、そんなぼくの感情なんてどうでもいいように、続いて彼女の紹介に入る。でもぼくはそんな状態だったもんだから…
「で、颯、あいつは…颯、聞いてるか?」
「あ、うん、聞いてる聞いてる」
 なんて、慌てて答えなければならなかった。
「あいつは斉藤千夏(さいとう ちか)。俺のイトコにして頭痛のタネだ」
「ぶー、なによそれー」
 頭痛のタネって…まあ、さっきから手玉に取られてるみたいだけど。でも、亨くんにそんな相手がいるってのは、正直驚きだ。
「でも…水嶋颯くんかぁ」
 と、ここで彼女は何を思ったのか、足を投げ出して座っていた瓦屋根から、勢いよく飛び降りて見せた。ふわり、と広がるデニムのミニスカートが、ぼくの思考を停止させた。突然の事にどうしていいのか解らず…目を逸らす事も、かと言って凝視することも出来ずに、そのときのぼくに出来たのは、彼女が玉砂利の上へときれいに着地する様子を、ただ呆然と目に映していることだけだった。
 ぼくたちに下着が見えることなんて、まるで気にしていなかったに違いない。それどころか、多分それを気にしていたのは、ぼくだけだったのかもしれない…少なくとも、亨くんは全然気にしてなかった。それに気付いたぼくは、なんだか急に気恥ずかしさと、妙な居心地の悪さを感じてしまった。
 しかし彼女は、ぼくのそんな心境なんてお構いなしに、
「…じゃあ、『そーちゃん』だねっ!」
 なんて、手を後ろに組んで、ちょっと腰をかがめてぼくの顔を下から覗き込むように…実際そんな事しなくても、彼女の背はぼくの肩にも満たなかったのだが…言ってのけた。
「そ…そーちゃんって…」
 ぼくはいきなりそう呼ばれたことに更に動揺を覚え、さっきの気恥ずかしさも手伝って、暫く何も言えずに、ただ突っ立っていただけだったんだけど、
「ん?」
 とか、無邪気そうな笑顔で首を傾げられたもんだから、
「よ…よろしく、千夏ちゃん」
 なんとかそれだけをしぼり出した。
 そんなぼくの様子を見ていた亨くんが、横から口を挟んだ。
「颯…言っておくが、お前と同い年だ」
「え?!」
 亨くん、今、何て言った?
「いや待てよ、お前たしか早生まれだったな…だったら、あいつの方が年上だ」
「ええっ?!」
 数ヶ月の差とはいえ、ぼくよりも年上? だって、こんなに…と、ぼくは再び彼女…千夏ちゃんの方に向き直る。絶対に150cmも無い。ひょっとしたら145cmにも足りないかもしれない。貌つきも幼さが抜けきらない感じで…はっきり言って、どう贔屓目に見ても同い年には見えない。
 もちろんそんな失礼(なんだろうな、多分)な事を口に出す訳にもいかず…幸い、それくらいの事を考える頭は働いていた…ただバカみたいに千夏ちゃんを見ていると。
「それはいいとして、だ」
 亨くんは、今度は千夏ちゃんに視線を据えて口を開いた。
「千夏、お前何しに来た?」
「とーるちゃん、さっき聞いてなかった? 遊びに来たんだよ」
「ただ遊びに来るんだったら、この数年の間にいつでも来れただろ? 他になにか目的がある筈だ…だったら、ホントは何をしに来た?」
 それを聞いて、千夏ちゃんは悪戯っぽい…というより、そのまんま「悪戯しようとしてます」って笑みを浮かべながら、
「それは秘密♪」
 と、冗談とも本気ともつかない(多分本気なんだろう)返事をしてみせた。
「秘密ってお前なぁ…」
「…でも、千夏に勝てたら教えてやってもいいかな〜」
 どこからともなく封筒を取り出して(まるで夏目先輩みたいだ)、1つウインクしてみせた。
「今度は何なんだっ!?」
 焦りの声を出して、亨くんがそれを奪い取ろうとするけど、千夏ちゃんは沈み込むことでそれを躱す。そのまま千夏ちゃんは地面を蹴り…信じられない事に、次の瞬間には屋根の上へと着地していた。
「じゃ、ルールはいつもの通りねっ」
 それだけ言うと、千夏ちゃんは足早に屋根の上を駆けていった。
 亨くん…完っ璧に手玉に取られてるなぁ。


 こんな亨くん、滅多に見られるものじゃないから、今のうちにじっくり見ておこう…なんて思ったけど、それよりも今のぼくには、気になることがあった。玉砂利の上で腕を組んで動かない亨くんに、ぼくはちょっと遠慮しつつも話し掛ける事にした。
「ねえ亨くん…」
「ん、何だ?」
 思っていたよりもさっぱりした答えが返ってきたのはちょっと意外だったけど、まあそれならぼくも訊きやすい。
「さっき千夏ちゃんが言ってたルールって何のこと?」
「ああ…簡単にいうと、鬼ごっこだ」
 へ?…鬼ごっこ?
「千夏のやつは、毎回遊びに来るたびに良からぬことを企んでるからな…それを白状させるために、いつのまにかそんな風に決まってたんだよ」
 まあ、鬼ごっこっていうのは、子供ならではの妥当な解決策とは言えるけど…それを今になってもまだやってるなんて…
「まず、千夏が逃げ出して1分経ったら、俺がスタートする。千夏が逃げる範囲は、敷地内…つまり、塀の内側だな。それを1時間以内に捕まえられれば俺の勝ち。逃げ切れば千夏の勝ちだ」
「………1時間も?」
 ぼくは夏休みの宿題を片付ける話は、どうなっちゃったんだろ?
「厄介な事に、千夏は途中いろんな妨害をしかけてくるからな、颯も注意しとけ」
「何でぼくまでっ?」
「お前、あだ名つけられただろ?」
 あだ名って…
「その時点で、もう千夏の中では、お前が参加することは決まってるんだよ」
「そんなムチャクチャな…夏休みの宿題はどーするのっ!?」
「午後やればいいじゃん」
「………」
「何も今日中に全部片付けるつもりだった訳じゃないんだろ?」
「そりゃあ…まあ……そうだけど…」
「じゃあ何も問題ないだろ。1分経ったことだし、そろそろ千夏探しに行くぞ」
 言うだけ言って、亨くんは1人で歩き始めた…って、
「ちょ、ちょっと待ってよ、亨くん!」
 裏庭の更に奥の方…さっきおじいさんが歩いていった方へと歩いていく亨くんを、ぼくは慌てて呼び止めた。
「ん、何だ?」
 何で呼び止められたか解らない、といった風に、亨くんは振り返った。
「何だじゃないよ。千夏ちゃん、屋根の上に逃げたんだよ? 追いかけなくて大丈夫なの?」
 ああその事か、と、亨くんはまたぼくの方に向き直った。
「あいつがいつまでも屋根の上にいる訳がないだろ」
 まあ、そりゃそうだろう。けど…
「でも、屋根の上からなら見つけやすいんじゃないの?」
「それがな、うちは屋根に登ってみたところで、死角になる部分がたくさんある。屋根の上だと、かえって効率が悪くなるんだよ」
 …そういうもんなの?
「逆にいうと、そういう場所にこそ千夏が隠れている可能性が高い。だからそれを順に回っていくんだよ」
「なるほどねぇ…」
「二手に分かれる。颯、お前はそっちから頼む」
 亨くんはぼくが来た方(つまり玄関の方向)を指差すと、
「え…ま、待ってよ亨くんっ!」
 今度はぼくが呼び止めるのにも耳を貸さずに、さっさと歩いていってしまった。






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