East End episode 1
- 第12話 : 東端にて -

これでやっと開放される…
それがぼくの甘すぎる認識だったと知ったのは
…そんなに遠い未来のことじゃなかった。
(東高校14HR・水嶋 颯の事後録より)







 右側が、ほのかに明るかった。
 南校舎2階・東ホール。左側…つまり南側には職員室。明かりは消えている…ということは、やっぱり今残っている先生は、あの2人だけってことになる。
 そして、右側…つまり北側には渡り廊下。街灯の光は薄く、頼りないけれども、それでも何とかここまで射し込んで来ている。これならライトは要らないかもしれない…けど、もしかしたらこのまま巨大蚊が廊下になだれ込むかもしれないし、3階に上って行ってしまう可能性もあった。
 でも実際には、そんな事考えている暇はなかった。階段を上りきってホールから後ろを振り向いたとき、巨大蚊は、ぼくのすぐ目の前にまで迫っていた。暗闇にライトアップされた巨大な異形は、不気味なことこの上なかった。ぼくはその場に竦みそうになりながらも、なんとか渡り廊下へと走りこんだ。
 闇が、段々と薄明りへと取って代わっていく。
 校舎の中とは違って、渡り廊下は窓ばかり並んでいる。いくら街灯の光が薄いとはいえ、広範囲に光が射し込んでいたから、先が見通せる分だけ明るかった。
 渡り廊下の中ほどまでを、一気に駆け抜ける。すぐ後ろに巨大蚊がついて来ているのはわかっていた。渡り廊下中に響き渡る重低音では距離感が掴めなかったけど、何とも言い知れない気配は、誘導したときからずっと背中に感じていた。
 それでもやっぱり気になって、後ろをちらっと見てみる。ぼくから少し間を空けて、ライトに喰らいつかんばかりの勢いで、巨大蚊が飛んでいる。そのすぐ後ろを追いかけるように、亨くん。
 これなら、後ろの事は亨くんに任せておけば、巨大蚊も引き返せないだろう。ぼくは渡り廊下の残りを一気に駆け抜け、また北校舎2階の東ホールへと足を踏み入れた。
 ホールの両脇に、水元先生と窪田先生が待ち構えているのが見えた。ぼくの姿を見ると、先生たちは頷き合ってから身構えた。
 そのとき、暗いながらも、2人の間の床に何かが横たわっていることに気が付いた。
 蛇?…いや、まさかそんな事はないだろう。どうも2人で両端を持っているみたいだから、ロープか何かなんだろうけど、それにしては太すぎる。だいたい、ロープなんかでこの状況をどうするっていうんだ?
 とか考えているうちに、それはもうすぐ足元にまで迫っていた。
「よくやった、水嶋! あとは私たちに任せておきたまえっ!」
 …ちょっと不安になりながらも、その床にある何かを跳び越えた。それが合図だったかのように、水元先生が声を上げた。実際には巨大蚊が迫ってきたからなんだけど、まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
「打ち合わせ通りに行きますよ、窪田先生っ!」
「わかっとるわい!」
「「3・2・1…」」
 水元先生と、何が気に入らないのか知らないけど不機嫌な窪田先生が、同時にカウントダウンを始め…
「「ハゲっ!!」」
 …と叫んだとともに、2人がそれを思いっきり引き上げた。
 その途端に、巨大蚊の目前に拡がったのは、…バレーボールのネットだった。その割に大きく見えるのは、多分途中で繋げてあるからに違いない。
 …どーでもいいけど、『ハゲ』が掛け声ですか?
 まだ消していなかったライトに照らされたネットには、全体的に、何かぼってりとした白いものが絡み付いていた。それがトリモチだと気付いた時には、ネットは巨大蚊の上に圧し掛かっていた。
 …あ、ってことは?
 と気付いたときには、もう遅かった。
「うおぁっ、ちょっと待てぇぇぇぇっ!!」
 そんな叫び声と共に、亨くんまでもが、トリモチネットに捕らわれていた。その粘着力の強力さは3階西ホールで実証済みだ。そんなのが体全体に貼り付いているんだから、当然身動きなんか取れる筈が無い。
「おいっ、颯! 早くこのネット外せっ! こんな間近にナマモノ…じゃねぇ、バケモノがいたら、気色悪いっ!」
 それでもネットの外に出ようともがきながら、亨くんは声を上げた。
「あ、やっぱり亨くんも気色悪かったんだ」
「当たり前だぁっ!」
「でも、このままじゃ僕の手もくっついちゃうよ?」
「そこを何とかしろっ!」
「んな無茶なっ?!」
 言って、どうしたものかと考え始めたところに、
「ふふふ…いいザマね、ナギハラっ!」
 言葉と共に、不穏な影が差す。
「なっ…夏目柚葉っ!」
 見た目にも重そうなバールを引き摺って、夏目先輩がゆらりと現れた。その額には、今まで見たことも無いような規模で、青筋が脈打っている…亨くんが焦っていた理由がこれだったことに、今更ながら気がついた。
「放送部突撃レポート班一の腕利きであるこのあたしを、あそこまでコケにして、ただで済むとは思ってないでしょうねぇ?」
『そーいうこと自分で言うか?』っていうツッコミを入れる暇も無く、冷たく光るバールの先端が、角加速度をつけて夏目先輩の背後に回る…
 ちょっと…それ喰らったら、いくら亨くんでも死ぬって!
「それは面白い、どうなるのか、私も興味があるねぇ」
 唐突に割って入ったそのひとことに、夏目先輩の動きが止まった。真上まで振り上げたバールは、そのまま手をすっぽ抜けて、天井に突き刺さった。恐ぃ…
「え? み…水元先生っ?」
「ん? どうなるんだ、夏目?」
「い、いえ…なんでもないです…
 水元先生のその問いかけの前に…っていうか、水元先生を目の前にして、夏目先輩は、消え入るような語尾でそう言うのがやっとだった。
 それを確認してか、水元先生は目配せをし…それを受けて、窪田先生が巨大蚊に近づいた。白衣のポケットから取り出したその手には、分離剤の入った試験管と、注射器が握られている。
 分離剤を注射器に移す、窪田先生の妙に慣れた手つきを、ぼくたちはただ黙って見守っていた。けど、その沈黙は、窪田先生の不用意な発言で脆くも崩れ去った。
「ふう…やっと取り掛かれるわい。面倒かけさせおって…」
「「「「あんたが全部話を面倒にしたんだろうがっ!」」」」
 その場にいる全員からの、図らずも息の合ったツッコミにたじろいだものの、窪田先生も黙っていなかった。
「何? そもそも教頭が妙な注文をつけなければ、こんなことには…」
「作る方も作る方ですよ」
「そんなことで化学者の未だ見ぬ可能性への挑戦を否定するのか! モーレツに不愉快だっ!」
 …言ってる事が無茶苦茶だよ。
 窪田先生はその腹立ちの勢いに任せて、注射器を巨大蚊の腹に突き立てた。
 …消毒って、しなくていいの?
 ぼくのそんな疑問をよそに、巨大蚊の腹が分離剤を飲み込んでいく…それからが問題だった。
 窪田先生が注射器を抜き放つと殆ど同時に、
 ボンッ!
 …という妙にくぐもった破裂音。一瞬遅れて、分離剤と同じ毒々しい色の煙が吹き上がった。瞬く間にその煙は視界を塞ぎ、向こう側にいる夏目先輩どころか、すぐ近くにいる亨くんさえ見えなくなった。
「うおぁっ?! 何だ何だっ??」
 すぐ足元から、亨くんの咳き込み混じりの叫び声が聞こえてくるけど、それどころじゃない。ぼくだけじゃなく、その場で動けるみんなは、一斉に煙から飛び退っていた。そりゃそうだろう。何しろその煙と来たら、濃縮腐卵臭とでも言えばいいんだろうか…そんな強烈なにおいを撒き散らしてくれたからだ。
 手近なところにある窓を思いっきり開け放ち、ぼくは暫く鼻を塞いでいた。でも、それが出来たぼくはまだ良かったかもしれない。煙が晴れたとき亨くんは、そのあまりもの臭いに、身動きが取れないまま、目に涙さえ浮かべていた。
 ああ…これが「鬼の目にも涙」ってやつか…
 その隣では、教頭・霜田が気絶していた。投薬によるショックか、急激な身体変化に耐えられなかったのかは知らないけど、とりあえずは無事みたいだ。
「ふむ…硫化物成分が強すぎたかのぅ…」
 まだ辺りに漂う強烈なにおいを手で散らしながら、窪田先生は呑気にそんなことを言っていた。もはや突っ込む気力さえ湧かなかったけど、何とか言っておかなければならないことがあった。
「先生、そんな事よりも…亨くんがヒドイ目に遭ってるんですが…」
「なに?」
 ぼくの言葉に、窪田先生は訝しげに床を見下ろし、今思い出したかのように「ぽんっ!」と手を打ち合わせた。
「おおっ、すっかり忘れとった」
「忘れるなぁっ!」
「な〜に、すぐに剥がれる。剥離剤は…」
 とか言いながら、白衣のあちこちにあるポケットの中を探り…探り…探り…やがて、1つの結論を下した。
「無いな…下に置いてきたか。ちょっと待っとれ」
「用意しとけよ〜っ!」
 身動きできない亨くんの抗議など聞こえないって感じで、窪田先生は1人、階段を降りていった。

 トリモチ剥離剤で亨くんが自由の身になる頃、
「これはいい記事になるわよ〜っ♪」
 なんて言って、鼻歌交じりにメモを取っている夏目先輩の姿があった。この暗いホールの中でも、メモ帳の上を走るペンには淀みが無い。まるで『記者を名乗るなら、必要最低限の能力よ』とでも言ってるかのようだ。
 そんな嬉々とした表情の夏目先輩の手から、唐突にそれは奪い取られた。
「何すんの…あ、水元先生…」
 夏目先輩は思わず声を荒げたものの、その正体を知ると、途端にその勢いを殺がれてしまっていた。
「夏目、間違ってもこれを記事にしちゃダメだぞ?」
「え? そ…そんな…でもこれは…」
「それに、こんなの記事にしても、誰も信じないだろう?」
 …確かに、1.5mにもなる巨大蚊なんて、普通は信じない。記事にする方は大真面目でも、読者には笑い話にしか聞こえないだろう。それでも夏目先輩は、なお食い下がった。
「でも…こういう事件にこそ突撃レポート班の真価が…」
「ああ水元先生、ダメですよ。そんな風に言っても、夏目柚葉は聞きません」
 夏目先輩の言葉を遮るようにして、突然亨くんが話に割って入ってきた。
「…何よ、ナギハラ」
「まあ落ち着け。ここはひとつ、取引きといこうじゃないか」
「取引き?」
 怪訝そうに問い返す夏目先輩に、亨くんは、少し目を細めて微笑を浮かべながら(いつも悪巧みするときの表情だ)頷き返す。
「そう、取引きだ。」
 と、今までどこに隠していたのか、亨くんは夏目先輩の目の前に、やきそばパンを突き出した。
「これでどうだ?」
「うっ…」
 一瞬、夏目先輩の目の色が変わるのが分かった。どうも大好物のようだ…けど、夏目先輩は、その折れそうな理性をギリギリで保ち、反論した。
「し…失礼ねっ! 食べ物で釣ろうなんて…」
 ぐぅぅぅぅぅぅ〜
 タイミングよく聞こえてきたその音に、夏目先輩は思わず顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。そこに、水元先生が追い討ちをかけた。
「あ〜、夏目…そういうことなら、私も今度、昼食をご馳走しよう」
「…し、仕方ないわねっ!」
 夏目先輩はやきそばパンを奪うようにして受け取った。
 …やきそばパンあたりであっさり買収される記者ってのもどうかと思う。けど、あまり表に出ていいような話じゃないことも確かだし、これはこれでいいことにしておこう。
 でも、こんな風に隠蔽される事実っていうのは、それがどんなに重要な事であっても情けないような気がした…






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