East End episode 1
- 第8話 : 真相 -

モーレツに不愉快だ!
(東高校教諭名言集・化学部門・窪田編より)







 やっぱり、スリッパはひどく走りにくい。
 それは今までに何度も思った事だったけど、今日は特に、そんな風に感じる機会に恵まれているらしい。
 更に、蛍光灯が点いていないから、暗いことこの上ない。
 さっき蟻川先生から借りてきた(ってことにしておこう)ハンドライトは、明るくはなるけど、全力で走るのには向いてない。視界がちらついてかえって走りにくいし、かといって腕を振らずに走ると、どうしても速度が落ちる。
 でもそれだったら、長い棒を持って走っている亨くんの方が走りにくいんじゃないか?
 …とか思ったけど、前を走る亨くんとは、すでに教室1つ分の差が開いていた。ぼくが出遅れたってこともあるけど、それを差し引いても差がつきすぎだ。
 その亨くんから檄が飛ぶ。
「急げ、颯っ!」
「充分急いでるよぉっ!」
 言い返しながら、滑る足元に苦戦しつつも、何とか追いつこうとする…けど、差は縮まらない。
 追いかけていると、亨くんの姿が左に消え…直後、左右に闇が拡がるのを感じた。3階東側のホールに差し掛かったんだろう。
 左側…つまり、北の方を見ると、亨くんが階段を降りていくところだった。
 明かりの無いこの状況でも見えているのか、大して勢いも殺さずに駆け降りていく。あれをぼくにもやれって?
 踏み外すかもしれないとは思ったけど、ここは敢えてハンドライトは点けない。中途半端に見えていると、かえって踏み外すような気がしない?
 勘だけを頼りに一気に階段を駆け下りる。そのままだと壁に激突するから、手すりに手を引っ掛けて慣性を殺し、反動で踊り場を回って反対側の階段を駆け下りるけど…まだ亨くんの姿は見えない。ちょうど1階分の差がついているらしい。
「颯、早くっ!」
 その亨くんから、またしても急かす声。今度は切羽詰ってるような感じがする。
 訳が解らないまでも、とにかく急いで2階から駆け降りる。
 1階と2階の間の踊り場まで降りたとき、下の方から、がらんっ、という重い金属的な音が聞こえた。振り向いてみると、化学実験室の前で亨くんがかがんで、何かを拾っているところだった。その視線は、部屋の中へと据えられている。
 部屋の中?
 階段を降りながらも、つられるようにして同じ方向を見てみると…え? 扉が開いてる…何で?
 頭に疑問が浮かんだのも束の間、
「ひえええぇぇぇぇぇっ!」
 …と、中から少しかすれた悲鳴が聞こえてきた。
 急いで化学実験室の入り口まで駆け寄って中を見てみると、誰かがあの巨大な蚊に捕まえられている?
 すぐにハンドライトのスイッチを入れて、中を照らし出したら…あ、夏目先輩。
 急に横から光を照らされて、夏目先輩は更に混乱したようだ。
 でも、こっちに視線を向けたのは一瞬だけで、すぐに目の前の脅威に意識が向いてしまう。6本の不気味に蠢く足で捕まえられていたら、悲鳴の1つや2つ、上げたくもなるってもんだろう。
 その瞬間!
 横でぶんっ、という風を切る音が聞こえた。
 巨大な蚊が夏目先輩から大きく離れていった。
 その直後、夏目先輩の足元の床に、今享くんが投げたバールが突き刺さった。
 うあ…亨くん、それ無茶苦茶だよ。
 夏目先輩はというと、そのあまりの衝撃に悲鳴も出ない様子だ。腰を抜かしてしまったようで、その場から動く事も出来ない。
 …ここで暴れられるより遥かにいいから、このまま放っておこう。
「颯、ライター持ってきてるな?」
「うん…どうするの?」
「ガスバーナーつけといてくれ」
「へ?」
「ここで一気に仕留めておかないとな…」
 言い残して、亨くんは巨大な蚊の方に駆け寄っていく。
 ガスバーナー? 何に使うんだろ?
 ともかく、言われるままにガスバーナーに点火する。
 その作業中にも、享くんが持つブラシの柄が空を切る音と巨大な蚊の羽音が、絶え間なく響いてくる。なかなか当たらないようだ。
「颯、まだかっ?」
「もうちょっと…あ、点いたよっ!」
 周りがちょっとだけ明るくなる…けど、ガスバーナーの光量なんて知れている。照明効果は期待できそうも無い…だとしたら、何のために?
「よしっ、颯、ライトであの蚊を照らしてくれ」
「またキビシイ注文を…」
 言いながらも、動きの速い巨大な蚊を、何とかライトで捉える。
 でも、このまま追尾しつづけるのは一苦労だ…と思ったら、そんなに難しい事じゃない事に気がついた。巨大な蚊が、こっちに向かって飛んでくるじゃないかっ!
 …巨大になっても、集光性は失われていないらしい。
「そのまま動くなよっ!」
 いつのまにかぼくの隣にきた享くんが、声をかけると同時に、ブラシの柄を構える。ガスバーナーを挟んで反対側に、巨大な蚊。
 亨くんは長く息を吸って…その息を止めた一瞬後、鋭い呼気とともに、ブラシの柄を前方に突き出した。その先では、ガスバーナーが炎を吹き上げている。
 まさか、ガスバーナーを弾き飛ばして蚊に当てるつもり?
 でも、ブラシの柄の先が当たったのは、ガスバーナー本体じゃなくて、それが噴出している炎だった。そして信じられない事に、そこから炎の弾がはじき出されて、巨大な蚊に真っ直ぐと飛んでいった。
 …また亨くん、怪しげな技を。
 炎の弾は、そのまま吸い込まれるように巨大な蚊の腹部に命中し、大きく弾けた。少し遅れて、細胞の焼ける異臭が漂う。
 続けざまに炎の弾を打ち出そうと、享くんが息を吸い込んだとき、
「その蚊を傷つけてはいかんっ!」
 唐突に、その声が化学実験室に響いた。
 動揺からか、亨くんの動きが止まる。その瞬間を逃さず、巨大な蚊は亨くんから大きく距離を取り、そのまま化学実験室の外…闇に包まれた校舎へと逃げていった。
「…誰だっ?」
 邪魔されてちょっと気を悪くしたのか、亨くんは不機嫌そうに言い放つ。
 それと同時に、声の主を探して部屋中を見回してみたけど…そんな事をするまでも無かった。化学実験室の奥、化学準備室に通じる扉が開いていて、中から漏れ出る光を背に受ける人影が、そこにはあった。
「それは私の台詞だ。立ち入り禁止にしておいたのに入ってくるとは…モーレツに不愉快だっ!」
 特徴的なこの口調、小太りな体格、微妙に薄くなった頭頂部…まさか?
 人影が進み出て壁に触れると、実験室が明るくなった。蛍光灯のスイッチを入れたんだろう。
 準備室の明かりのお陰で、眩しく思ったのは一瞬で、すぐに目が慣れた。
「窪田先生っ!」
 そこに立っていたのは、予想通り、東高校にその人ありと謳われたマッド・ケミスト、窪田先生だった。
「確か、行方不明のはずじゃ?」
「何を言っているんだね? 私は今日はずっとここに居ったぞ」
「あ〜、逃がしちゃったんですか? ダメじゃないですか」
 と、今度は化学実験室の入り口から声が聞こえてくる。
「水元先生まで…」
「…ってことは、2人で怪しい共同実験をしていたってのは本当だったのか」
「それ、享くんが言い出したことだよ?」
「おい水元、ここには誰も入れるなと言っておいたじゃないか」
「済みませんねぇ、この3人だけはどうにも止めようが無かったんですよ」
 …え? ってことは水元先生、最初からぼくたちがここに侵入するって予測してたってこと?
「それにしても夏目、お前いくら扉が開かないからって、壊したりしちゃいかんぞ?」
「あ…水元先生…あたし…その…」
 夏目先輩は顔を真っ赤にして、言葉にならない言葉を必死に紡ぎ出そうとしていた。
「開けるなら、もうすこし穏便な方法にしとけよ」
 間違ってるっ…何かが間違ってるっ!
「それより水元先生、ここで何があったんですか?」
「そうですよっ、わざわざ封鎖するなんて、フツーじゃないですよ?」
「……」
 水元先生は少し考え込んでから(恐らく、何かを算段していたんだと思う)口を開いた。
「窪田先生」
「…何だ、水元」
「ここまで来たら事情を説明した方がいいですよ? それに、捕まえるには人手が多い方がいいでしょう?」
「何か知ってるんですかっ?」
 情報のにおいを感じ取ったのか、夏目先輩が食いつかんばかりの勢いでマイクを突きつけた…さっきまで腰抜かしてたんじゃなかった?
 でも、窪田先生はそんなことを気にする様子も無く、マイクを手にとって話し始めた。
「話せば長くなるんだが…」
「あの、手短にお願いします」
 以前にイヤな事でもあったのか、水元先生が困った様子で懇願する。
「う、うむ、解った。話せば長くなるんだが」
 …だからぁ。
「実は、あの巨大な蚊は…教頭だ」
「「…えええええっ?!」」
 ぼくたちは、揃って声を上げた。
「そんないいかげんな事言って、俺たちを体よく煙に巻こうとしてないか?」
「そうですよ、しかもそんなバカ話じゃ、今時幼稚園児も騙せませんよ?」
「話は最後まで聞かんかっ! まったく、モーレツに不愉快だ!」
「それで、教頭は何であんな姿に?」
 と、誤魔化すように夏目先輩がマイクを突きつける。
「うむ、昨日の夜のことだ。前から教頭に依頼されてた強力育毛剤がついに完成したのでな…」
「「「強力育毛剤っ!」」」
 思わずぼくたちは声を重ねていた。
「どうする、亨くん? まさか昼間の冗談がホントに起こってるなんて…」
「言うなよ、俺だってまさか本当にこんなバカバカしいことだとは思ってなかったんだからな」
「甘いわね、ナギハラ! 世の中は…殊にこの東高校ではこんなこと日常茶飯事よ」
「「…ヤな学校だ」」
 夏目先輩の言葉に、ぼくたちは2人で溜息を吐いた。
「コホンッ!」
 窪田先生の咳払いが響いた。そういえば、話の途中だったような…
「…ところが、少し成分を間違えたらしくてな」
 ホントに少しなのか?
「教頭は早速ここで育毛剤を使ったんだが…多分そのとき、偶然頭に止まっていた蚊と有機的に結合してしまったんだろう…いや参ったね、はっはっは」
「「「…笑い事じゃねぇっ!!」」」
 3人声をそろえたところに、水元先生がなだめるように話を引き継いだ。
「…ちょうどそこに、私が宿直で見回りに来てね。それで分離剤を作るからしばらくここを封鎖してくれって頼まれたんだよ」
 …なんだか、水元先生の説明の方がずっとまともに聞こえるよ。
 しかし…育毛剤が原因とは…頭痛がしてきた。
 亨くんも夏目先輩も黙っているところを見ると、どうやら同じ心境らしい。
「ん、どうした? 私の学術的な話に感動しておるのかね?」
「「呆れてるんですっ!」」
 何だか、とてつもない疲労感を覚えた。この先、判明した真相を思い出すたびに、その疲労感は増えていくような気がしていた。
 そんな状況からいち早く復帰できたのは、やっぱりこういうことには慣れている(であろう)夏目先輩だった。