East End episode 1
- 第7話 : 侵入先の罠 -

これはもう、基本だなっ!
(県立東高校数学教諭・蟻川の授業より)







 床が冷たくて気持ちがいい。
 …けど、疲労感は、なかなか消えなかった。
 後ろから聞こえる、廊下が流れる音がだんだん小さくなって…ついに聞こえなくなっても、ぼくたちはそこに座り込んだままだった。
 水元先生のイタズラは何も今に始まった事じゃないけど、ここまで大掛かりで、且つバカバカしいものを見たのは初めてだった。
 そんなものを見た後だった事もあって、何ていうか…精神的に疲労していた。
 でも、それも少しの間だけで、
「そろそろ行くぞ」
 ここで座り込んでいてもしょうがない、と思ったのか、亨くんは立ち上がり、先に歩き出してしまう。
「あ…ちょっと待ってよっ」
 慌てて立ち上がり、亨くんの後を追いかけた。
 北校舎の廊下と渡り廊下が交差しているこの場所は、ホールみたいにちょっと広めになっている。
 学校の校舎って建物は、昼と夜とで全く違った雰囲気になるってよく聞くけど、この場所に来て、はじめてそれを納得したような気がした。
 いままで通ってきた廊下みたいなところよりも、がらん、って音がしそうなこの少し開けた空間は、何ともいえない薄気味悪さを感じさせる。
 蛍光灯も点いていなくて薄暗いっていうのが余計にそんな感覚を強調しているみたいで、見慣れたはずのこの場所が、まるで初めて来た場所みたいに思えてくる。それがまたぼくを落ち着かなくさせて、いつもなら気にも留めないいろんなことに気がついてしまう。例えば…
 廊下の壁にある掲示板が、微妙に傾いて取り付けられている。
 このホールにだけ、何故か消火栓が2つも置いてある。
 天井にある蛍光灯の台座が、外れかかっている。
 壁と天井の間に、わずかに隙間がある。
 …こうして見ていると、北校舎が古い建物なんだってことを実感させられる。多分、それも今感じている薄気味悪さに一役買っているんだと思う。
「颯、何やってんだ?」
 ホールの突き当たりにある階段の手前で、亨くんが振り返って声をかけてくる。
「ごめん、今行くよ」
 ちょっと大きな声で、感じていた薄気味悪さを振り払うように返事をして、階段まで掛けていった。


 3階は、2階と殆ど変わらない構造になっている。階段を上りきると、目の前にちょっとしたホールが広がっていて、それは廊下と渡り廊下へと続いている。
 3階の渡り廊下が雨ざらしってのが2階とちょっと違うところで、外からの進入防止に扉がついている。この扉はロック機構付きのクレセント錠で施錠してあるから、こっち側から開けて渡り廊下に出ても、同じ造りになっている南校舎には入ることが出来ない。
 目指す数学研究室は、ホールのすぐ西側にある。
 明かりは点いてない。これなら中に誰かいるってことは無いだろう。
「何だか、ここまで長かったよなー」
 亨くんが、溜息混じりにつぶやいている。
 それを聞いて、今更ながらちょっとした疑問が湧きあがってきた。
 ライター1つ手に入れるのに、なんでここまで苦労しなきゃなんないんだ?
「ねえ、亨くん」
「ん、何だ?」
「ライター探してるんだよねぇ?」
「そうだけど?」
「外のコンビニで買えばよかったんじゃないの?」
 そう、その方が遥かに楽だった筈なのに、ぼくたちは渡り廊下で延々と走り続けたうえ、こんなところにいる。
「…バカだなぁ、颯」
 亨くんが急に真面目くさった顔で答え始めた…何だか、イヤな予感がする。
「それじゃあ、面白くないだろ?」
「…あああっ、やっぱりいぃぃぃぃっ!」
 予感は見事に当たっていた。
「それより颯、早く鍵開けてくれ」
「え? …うん、そうだね」
 中に誰も居ないならば、この時間なら当然鍵が掛けてある。
 数学研究室の扉に近づいて、例によって扉にぶら下がっている南京錠を手に取る。
「明るい方が良くないか?」
「普通の鍵だったら、別に暗くても大丈夫だよ」
 亨くんが気を利かせて、廊下の蛍光灯のスイッチがある方に歩いていくのを、ぼくはやんわりと止めた。
「そうか?」
「それに、明かりを点けるのはちょっとまずくない?」
「…そうだな、じゃあ、任せる」
 背中にそんな亨くんの言葉を受けながらピッキングツールを取り出し、ぼくは暗い中でなんとか鍵を開けようと手元をカチャカチャやっていた。なんとかって言っても、いつも指先に伝わってくる感覚だけを頼りにしてるから、暗くても大差は無い。
 程無くして、指先に確かな感覚を感じ取った。直後、南京錠は小さな音を立てて開いた。
「開いたよ」
「よし、すぐに探そう」
 南京錠を扉の金具に引っ掛けてから、取っ手に手を掛け、ひと息に、それでも音は控えめに扉をスライドさせる。そのぼくの横を、亨くんは猫のようなしなやかさですり抜けて、数学研究室に一歩踏み込んだ。
 中を見るのは、ぼくも初めてだった。
 何て言うか…倉庫を兼ねた小さな職員室っていうか…
 とにかく、雑多に物が置いてあった。机の上に限らず、棚にも、床にも、至る所に…
 ひとことで言うと、汚い。
 そのあまりもの光景に、その場で呆然となった。時間にすればほんの一瞬だけど、そんなぼくを現実に引き戻したのは、
「んおっ? …やばいっ!」
 っていう亨くんの叫びだった。
「ど、どうしたの?」
「次のテストの問題用紙があるっ!」
「え? それって、まずいじゃんっ!」
 この状況を誰かに…特に先生に見られたら、完全に誤解される。そうでなくてもやばい事やってるってのに…
 慌ててこの場は撤退しようとしたんだけど、こういう時はとにかくついてないのが相場らしい。
 数学研究室の外から、一条の光が闇を貫いた。
 ハンドライトの強力な光が、そのまま闇を横薙ぎにしていき…
「くっ、こんな時に宿直の見回りか…?」
 光はやがて亨くんとぼくを捉え…一瞬遅れて、特徴的な口調で甲高い声が聞こえてきた。
「あれあれあれぇ〜? お前ら、こんなところで何してるんだ?」
 光の先に見える、痩身で、長い棒を持っているそのシルエットは…間違う筈も無い、数学教師・蟻川だった。
 何してるんだ?とか訊いたところで、この状況で先生から導き出される結論は、多分ひとつしかないだろう。例えぼくたちがどんな言い訳をしたとしても、だ。
 亨くんも同じことを考えているみたいで、いつものような巧妙な話術を繰り出さずに黙っている。ただ、普段見たことの無い鋭い目つきで蟻川先生を見返している。
 蟻川先生は、その沈黙を状況の肯定だと、一方的に決め付けたようだ。
「不正行為は罰せられなければならん。これはもう、基本だなっ!」
 そういって蟻川先生は、棒の先で空中に「基本」と書いてみせる。例によって一筆書きで。…だから読めないって。
 その間に、亨くんは数学研究室から廊下に出て、更に少しずつ移動していた。
 それを見て、この場から逃げようとしていると受け取ったのか、蟻川先生は棒を頭上に振り上げてから、
「愛の鞭だ!」
…とか言いながら亨くん目掛けて振り下ろしてきた。
 うわっ、痛そうっ!
 当たったときの亨くんの衝撃を想像したぼくの目の前で、ちょっと信じられない事が起こった。
 今にも棒が当たるその瞬間、亨くんは素早く左半身になって、棒の軌道から外れていた。棒は振り下ろされた勢いのまま、亨くんの目の前を通り過ぎていき…
 カーンッ!
 …と、軽い音を木霊させ、廊下に打ち付けられていた。
 蟻川先生も信じられなかったらしく、少しの間そのまま動けずにいた。その隙を逃さず、亨くんはそこから数歩下がり、廊下の隅に置いてある掃除用具ロッカーに手を掛けていた。そのままロッカーの戸を開く。
 そのときのバタンッという音で、蟻川先生は呪縛から解き放たれたように動き出し、亨くんの方に突進していった。
 その間に、亨くんはロッカーから柄の長いブラシを取り出していた。そのままちょっと振り回して…ブラシの部分が邪魔だと思ったらしく、足で踏みつけて折ってしまった…って、マズイよ、それも〜っ!
 改めて亨くんがブラシ…今となっては柄だけの…を構えたときには、荒川先生は目の前に来て、棒を振り上げていた。もはや、体罰以前に暴走しているだけに見える。そして、それが荒川先生の運命を決定付けていた。
 再び棒が亨くんに向かって振り下ろされた。一瞬後…
 どんっ…バキッ!
 …擬音にするとそういう風にしか表現できない音が響き渡った。
 亨くんが柄の先で、蟻川先生が振り下ろした棒を受け止めている…そんな風に見えた。けど、ちょうど受け止めた場所から先の部分が、キレイに無くなっていた。
 間髪を入れずに、亨くんが柄を大きく引きながら踏み出し…
 どんっ!
 多分、踏み込みのものであろうその音とともに、蟻川先生の眉間に向かって柄を突き出していた…けど、微妙に柄は届いていない…?
 不意に、足元でがらんがらんっ、と音が鳴り響いた。びっくりしてみて見ると、折れた棒の先が転がっていた。その音が合図だったように、亨くんはブラシの柄を引き、こっちに顔を向けた。もう目つきの鋭さは無くなっている。
 蟻川先生はそのまま動かない。
 何が起こったのか、全く解らなかった。
「と…亨くん…一体何が…?」
 ぼくの問いかけに、目線だけで蟻川先生を指し、亨くんは再び数学研究室に入っていった。「見てみろ」ってことかな?
 首をひねりながらも、さっきから全然動かない蟻川先生を近くで見てみると…
「え? …そんなっ!」
 蟻川先生の額と言わず、体全体がうっすらと凍っていたのだ。
 たったあれだけのやりとりの中で、どうやったら体が凍るなんて事が起こるんだ?
 慌てて体を翻し、亨くんのもとに駆けつける。
「亨くん、あれって…何やったのっ?!」
「何って…凍らせたんだけど?」
「そんなの見れば分かるよっ! どうやったらあんな事になるのっ?」
「どうやったらって…なぁ…とりあえず、颯も探すの手伝え」
「…ライターだよね?」
 ちょっと罪悪感を感じつつも、机の上を見回したり引出し覗いたりしてみるけど…
「見つからないねぇ…」
「暗いから余計にな」
 そう、外から見て不審に思われるのを嫌って、ぼくたちは今明かりも点けずにライターを探していた。簡単に見つかるものだと思っていたんだけど、何しろ部屋がこの有様だ。ここまで散らかってると、ライターなんて何処にでもありそうで、それでいてなかなか見つからない。
「懐中電灯とかあればいいんだけどな」
「懐中電灯…あっ!」
 突然叫んで、ぼくは数学研究室から飛び出していた。蟻川先生が持っていたハンドライトのことを思い出したのだ。
 探すまでも無く、それはホールに転がっていた。
 スイッチを入れて、再び数学研究室に入る…ライトを亨くんに向けて。
「じゃ〜んっ!」
「…眩しいからやめろ」
 ここに至って、亨くんもやっと蟻川先生が持っていたハンドライトのことを思い出したらしい。でも、こうなれば話は早かった。あちこち照らし回しているうちに…
「…あった!」
 唯一見つかったライターは、机の下に転がっていた。
「そりゃ見つかんねーよな」
 溜息とともに亨くんがこぼしていた。
「それで、あれってどうやったの?」
 数学研究室の外でまだ凍っている蟻川先生を指しながら、もう一度亨くんに訊いてみると、今度は答えが返ってきた。
「何て言えばいいのかな…颯、気体の状態方程式ってのを知ってるか?」
「? あの、化学の時間にやったヤツでしょ?」
「気体を圧力一定の状態で急激に圧縮すれば、その分温度が下がるってヤツだな(注:下記参照)」
「…ちょっと待って、アレってそんな理屈で凍ってるの?」
「俺も良く知らないんだが、基本はそれらしい」
「何かが間違っているような…」
 数学研究室を出て、南京錠を閉めながら聞いたその説明に、どうにも納得しかねていたそのとき…
「あえええええぇぇぇぇぇぇっっ!」
 と、遠くから奇妙な声が聞こえてきた。
「…亨くん、今の…何?」
「悲鳴…にしてはちょっとヘンだな…」
「あっちの方から聞こえてこなかった?」
 東の方を指差しながら言うと、
「化学実験室…まさかっ!」
 言うが早いか、亨くんは駆け出していた。
「ちょっと亨くんっ、どうしたのっ?」
 訳が解らないながらも、ぼくも慌てて亨くんの後を追いかけていた。


 注:もちろん冗談ですが、念のために注釈を。気体の状態方程式は実際に化学・物理の分野で存在しますが、作品中の状況では適用されません。






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