うんぬん

TITLE:『 日本初のマイカー てんとう虫 町をゆく
〜家族たちの自動車革命〜

これは、はっきりいって読む人が internet 上にいるんだろうか。
それはどうでもいいっす。
感動した。そして感想をもった。それだけです。
見てない人に見てもらいたいので書きました。
以上。

いいね……。技術者って……。感動した。本当に…。
最近歳の所為かこういう事象には涙もろいね。

…百瀬晋六…
「やってみせます。」

その Project が発動したおかげで、
時代が進んだ。
きっと、百瀬氏が Project "My Car" を起こさないでも、
本当のところ、誰かが My Car を作っていたでしょう。
"無"から"有"を産んだ人ではありませんから……。

でも、彼は次元が違う。
それは、己の環境下で、それを実現した人間なのである。
彼を中心に7人の技術者は、実現した人達なのである。

それは、まぎれもなく、時代を動かした人間。

抽象的産物が産んだ予測できる範囲の時代の進化ではなく、
昭和33年に、
スバル360として、
販売まで実現した具体的功労者。

自分の努力で時代を進めた人間。

いつの時代も、ある程度、進化はする。
それは、人が人々と社会を創った以上、必然性をもって、可能性のある事だと考慮できる。

……でも、
それを「我が身」に置き換えた事がある人物は
……そうはいない。

彼らは、まさにその人だ。

そこに、少しの偽善もない。
「やってやる」
篤い想い。その想いの意味が彼等の人生……。

俺はこういう人間に魅了される。
自分は、こういう人間になれるのだろうか?
この放送を見てそう思った。

彼等は偉大だ。俺の中でとても偉大だ……。

日本や人間の社会を斜めから批判し、汚れた世界と嘆く奴もいるけど、
この人達の影、この人達の背中を見ろ!
汚れた部分は、改善の余地があるだけのことだ。

「昔は良かった」という人々よ、時代の形が変わってしまうことに理屈もなく恐れるな。
時が刻んでいる限り、得るものと、失うものは、刻一刻と発生する。
それを把握した人間は、失うことにも価値をみる。
時代が進む事は、失うものより、得るものが大きい。
人類が集団生活(社会)を選んだときから、形は変わりつづけている。
人の努力による社会、それは進化の形。
進むにつれ、適応しない部分に汚れを感じるなら対処するのも努力。
対処も進化であることを忘れてはいけない。

人…彼は…百瀬晋六……。
彼の背中には、きっと家族の様々な形が見えたのだろう……。
彼の Project は無謀である。
だが、現実と成す事ができた……
それは奇跡ではない。
挑戦する気力と努力と技術の結晶だ。
彼の篤い想いの強さが、彼の凄さ。
彼の篤い想い・意思に固有名詞をつけるなら百瀬晋六である。
人は体に名前がついているのではない!意思に名前がついているのである。
彼の意思は、どこからくるものなのか……
それは、推測の域を出ないが
彼はきっと自分の力を知っていた人間なのだろう。

人…彼は…小口芳門……。
彼の苦労の先に見えたものは、他人から見れば些細な幸せ。
しかし、それが、この Project の成功への鍵になったようだ。
人の幸せの価値など、他人が評価するものではないのだ。
彼も紛れも無く生粋の技術者だ。
仕事と生活[家族]の両立。
これは不可能ではないようだ。
それは、
もしからしたら……
対義語が国語表現上でしか存在せず、
人の生活においては、対義語は存在をしていないことを
知った人間だけが得ることの出来る
別世界なのかもしれない。

My Car を作った人達は、身近な人の些細な願いをこめていた。
それが壮大な Project に挑んだ理由。
その道は険しく、大変苦しいものだった。

でも、人は偉業を達成しようとすると、どうだろう?
想像してみる……。
特に俺は偉業を達成しようとすると、異常にでっかいものしか思い浮かばない。
しかし、そういう発想は、賭ける道筋も無く成功しない。

自分達の中で夢として、人生を成功させるには、具体的にある夢に、
妥協を許さないことなのではないだろうか?
俺はこの放送を見てそう感じた。

百瀬晋六氏は家族で旅行へ行く。(那須高原)
それが、自分の目的だったのだ。
庶民全員に自動車が渡るのは2次的な夢。
時代の流れを作った、庶民の足としての成功者。
それを称えるのも正論。

小口芳門氏は、自分の妻を車で迎えに行った、街へ連れて行きたい。
それを達成したのだ。
私的には、小口芳門氏の本質こそ、小口氏として生きた彼の人生だというべきだと思う。

人は、人として、まとまった category に入れてしまえば、
いろんな事をやってきた稀な生物だといえるだろう。
しかし、一人一人が生きているのである。
俺が生きてるんであって、読んでるあんたが生きてる。
個人としての意志をもっていて、自分の人生を生きてる。
そこに、人という人物はいない……。
つまり、人としての人生は生きてる意味がないのである。
人として生きるなら、酷い事を言うようだが、その人の変わりはどこにでもいる。
別にその人は、この世に必ずしも、必要とされない。

小口氏は人として生きるのではなく、彼は小口芳門という固有名詞(人生)を送ったのである。
他人の目なぞ気にすることはない。

自分"に"一生懸命生きた人間こそ、自分の価値を理解しているに違いない。

百瀬晋六氏、小口芳門氏の背中からは、
それを歴史として痛烈に俺は感じている。

時代を作るのは人である。
しかし、時代にいるのは自分である事を忘れてはいけない。

自分の力を知っている人間とは、多分そういう人の事を云うのだろう……。

自由に生きている人とは、多分そういう人の事を云うのだろう……。