それは昔、そして今  
 

2002-12/25 (Wed)

 
 


「それは昔、そして今」

自分の中で、好意的な感覚があるとして、
その好意的な部分が実は曖昧な事があったり。

好きと好きでない(not 嫌い)の境界線を
自分が意識してなかった事が原因だった。

でも、その刻、曖昧だ境界線は存在した。
それは、美徳感覚だったり、一般的にいう道徳だった。

確かに、美徳感情は素敵だし、
道徳は法律に定められない、文化的な法律だとおいらは想ってる。

でも、それでは弱かった……。

それでは、社会が汚れて見えた……。

悲観的に物事を捉えたり、
悲観的に物事を捉えた上で、天邪鬼をして、
前向きになっていた……。

そして、昔のおいらはね、

「悲観的に物事を捉えた上で、天邪鬼をして、
 前向きになっていた……。」

これが、努力で美しい。活きる事だと想っていた……。

この中には、切ないような感情があり、
その中には、ひたむきに頑張る自分の像がある気がしてた。

でも、
これでがんばると、疲労が溜まり、
努力すればするほど、自分は何かに追い込まれるんだね。

そして、活きる事への崩壊が進み始める。

でもね。

何に対して「悲観的」なんだろうね。って気づいた。(^^)

悲観的に見ているのは、
一般論で、自分の根拠に基づいてなかった……。

一般的に「これは悲しい事象」だから、
こんなことがある世の中なんて……。

一般的に「これは辛い事象」だから、
世の中、これに溢れてやがる……腐ってるな……。

何故「辛い事象」だと言い切れる。
その根拠は何故だ。

数ある可能性をすべて、「ひとつ」に限定している価値はあるのか?

それは、全員の個性を自分で削除し、ひとつに収束して、
価値を見失っていないのだろうか?

わからない。

これって素敵なことだと最近は想う事がある。

わからない。

学問的な基礎だと、劣等感が自分の中に芽生える言の葉。

でも、「意思」を持つ者を評価する場合、おいらは最初にこれが頭に出てくる。

それて今では素敵な事。

わからない=自分の想像枠に収まる活き方をしていない事

だから、その人と触れ合う事で、自分が成長させて頂いている。(^^)

素敵なこと。

そして、この事に気付いたおいらは、
今もいろんな境界線の引く想いを募らせている。

それは、一時的な限定であり、進化もする。

だからこそ、おいらは、自分に素直に活きれる感じがする。

心の奥にあるものと、心の表面にあるものが、
疎通がとれはじめている感覚。

とても心地いい。(^^)

そして、人と触れ合う事で、そのgapを感じたとき、
人の境界線が、その人の歴史でもある事に、
ちと感動しはじめている自分に気付いた。

全ての人が生きていて、多くの人がきっと活きていると想う。

でも悩む事で活きる事が見えなくなっている人もいると想う。

でも、でも、
活きることは、自分の全てだと自分の心が謳う。(^^)