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「それは昔、そして今」
自分の中で、好意的な感覚があるとして、 その好意的な部分が実は曖昧な事があったり。
好きと好きでない(not 嫌い)の境界線を 自分が意識してなかった事が原因だった。
でも、その刻、曖昧だ境界線は存在した。 それは、美徳感覚だったり、一般的にいう道徳だった。
確かに、美徳感情は素敵だし、 道徳は法律に定められない、文化的な法律だとおいらは想ってる。
でも、それでは弱かった……。
それでは、社会が汚れて見えた……。
悲観的に物事を捉えたり、 悲観的に物事を捉えた上で、天邪鬼をして、 前向きになっていた……。
そして、昔のおいらはね、
「悲観的に物事を捉えた上で、天邪鬼をして、 前向きになっていた……。」
これが、努力で美しい。活きる事だと想っていた……。
この中には、切ないような感情があり、 その中には、ひたむきに頑張る自分の像がある気がしてた。
でも、 これでがんばると、疲労が溜まり、 努力すればするほど、自分は何かに追い込まれるんだね。
そして、活きる事への崩壊が進み始める。
でもね。
何に対して「悲観的」なんだろうね。って気づいた。(^^)
悲観的に見ているのは、 一般論で、自分の根拠に基づいてなかった……。
一般的に「これは悲しい事象」だから、 こんなことがある世の中なんて……。
一般的に「これは辛い事象」だから、 世の中、これに溢れてやがる……腐ってるな……。
何故「辛い事象」だと言い切れる。 その根拠は何故だ。
数ある可能性をすべて、「ひとつ」に限定している価値はあるのか?
それは、全員の個性を自分で削除し、ひとつに収束して、 価値を見失っていないのだろうか?
わからない。
これって素敵なことだと最近は想う事がある。
わからない。
学問的な基礎だと、劣等感が自分の中に芽生える言の葉。
でも、「意思」を持つ者を評価する場合、おいらは最初にこれが頭に出てくる。
それて今では素敵な事。
わからない=自分の想像枠に収まる活き方をしていない事
だから、その人と触れ合う事で、自分が成長させて頂いている。(^^)
素敵なこと。
そして、この事に気付いたおいらは、 今もいろんな境界線の引く想いを募らせている。
それは、一時的な限定であり、進化もする。
だからこそ、おいらは、自分に素直に活きれる感じがする。
心の奥にあるものと、心の表面にあるものが、 疎通がとれはじめている感覚。
とても心地いい。(^^)
そして、人と触れ合う事で、そのgapを感じたとき、 人の境界線が、その人の歴史でもある事に、 ちと感動しはじめている自分に気付いた。
全ての人が生きていて、多くの人がきっと活きていると想う。
でも悩む事で活きる事が見えなくなっている人もいると想う。
でも、でも、 活きることは、自分の全てだと自分の心が謳う。(^^)
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