記憶の形  
 

2002-11/1 (Fri)

 
 

自分は今、様々な流れの中で、自らの流れを作っている。


枠という「何か」があるが、そこに入れる人はどれほどいるんろうか……。

たとえば流行とanti流行。
そもそも、流行派、anti流行派とは枠に入れるだろうか……。

流行な容姿は流行派なのだろうか……。
俺は違う。

俺の意思の結果流行の形、anti流行の形になっているんだ。

だから、genre なんて物を分けられるが、
その属性に身を置くことはできやしない。

なぜなら、俺は俺の意思で活きているから……。

全てが何かの枠で他人に選別されようと、
そこに、本当の意味は何も無い……。

何かに背を向けるのではなくて、
何かに傾けるのではなくて、

きっと、自分の意志で何かをする事。

それって、もしかして夢っていうんだろうか?

positive、negative……。

自分を評価する言の葉。

他人を評価してもそれは自分を評価していることになる。
俺は、この文を読んでいる人にとって、
positive、negative……?

でもね、俺にそういう評価を下したところで、
結局俺の心理がどう働いているかは blackbox。

ただ一ついえるのは、俺になんらかの評価をもっているなら、
それは、自分の主観、価値観に対して、相対的に

俺がそういう人間に確実に写っているんだよ。

そう、俺はきっと貴方にとって、そういう性格に見える
あなたが性格をしているんだ。

「我想う故に我あり」

これをこういう心の形にもあてはめてみると、
何か自分を、より知ったような気がする……。

俺はこうやって、様々な事象をなんらかで、
自分の存在という奴を知っている気がする。

作ったり、作られたりする価値、俺の像。

でもそこの視点に立つ主観はきっと、
それほどの価値しかない。

なら、全てに対して自分の意志で評価の対象としているなら、
全ての自分以外につけた価値は、きっと自分の価値。

自分の記憶の価値を新しい記憶の page に記憶を記す。