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自分の人生に、凹凸がなくて、 つまんなくて哀愁の臭いをつけてみる……。
それは当人の口から出た言の葉。
素直に表現した自分自身を見つめた結果だという……。
様々な想いを募らせ、切なさを孤独と重ねてみる。
切なさと孤独に心は満たされ、
自分の心に…… その想いに……
癒しを求める……。
美しき哀愁を集めて、 現実としてため息をはく……みたいなね……。
一応いっておくと 俺は哲学というものを大学の講義で取った事ないし、 どういう有名な哲学者がいるかも知らん。 心理学もまったく関与してこなかった。 心理学も哲学も概要さえ知らんし、わからん。
だから俺は、俺の経験則から自分の意志の土台を通す。
だから俺以外に通用はしないが、俺が活きている事は、 その人の主観からも sample として伝われば意味があると想っている。
だから、哀愁に浸るその内容は別にいいんだ……。
でもね、哀愁に浸りたい時点で既に一つ哀愁なんだよ。 俺はそう感じる……。
無論、その痛み、悲しみが理解できるなんて事いえない。
でもね、俺的にはね、
その苦しみを大切にしてほしいんだ……。 その苦しみをね、自分の心全てを掛けて打ち勝って欲しいんだ。 その糧がね、一つの turning point になった人が沢山いるんだよ。 #沢山って言葉が曖昧だね……。 #俺の知る周りには、知人数の割合的に多いって意味だ。
平凡な人生と想う人に申し上げます。 その「平凡な人生」とは何がその境界線になっていますか? その境界線は自分の意見で引かれているかな…・・・。
平凡な人生とはね、本当に平凡かどうかなんてわからないんだよ……。
でもね、 平凡な人生と判断した人はね、 少なくとも「平凡な人生」だと想った(評価した)自分がいるんだよ……。
つまり、 「平凡な人生」だと想う(評価)辛い気持ちの自分がね……。
悲しみや痛み苦しみには大きさなんてないからね。 #さんざん、この 話 は 日記 に載っています。r(-_-)
好きで哀愁感覚に浸る人はいいと想う。 でも、自分の人生に平凡感を募らせ、哀愁感に浸るのはね……。
前者と後者は大きな違い……。
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