信じる・不安  
 

2002-10/9 (Wed)

 
 

不安ってのは、どう解決するのか?

それは人によって様々なんだろう……。

信じられるって事をどう説明すればいいんだろう。

その前に、明確に俺は何を信じているんだろう。
信じているものがなければ、信じろなんて教えられない。

不安を取り除くのは、案外難しいものだ。

不安になるのをとめられない人は、不安ととめられないほどの理屈がある。

簡単なこと。信じること。

そう考える事もできるだろう。
しかし、それは自分の中でそういう「癖」や
生活スタイルを身に付けた者だけに通用する問題だ。

そんなのは、一部の悩める者を救うだけだ。

苦しくて蓋を閉めた者が、不安な要素が増加する事象にあったとき、
自分の理性では止められない状態を意味するんだ……。

何故蓋を閉めたんだ?
逃げた?っていう人もいる。
臆病者っていう人もいる。

でも、断言する前に深さを考えなきゃ駄目なんだ。
深さってのは、俺に到底見えないものかどうかは、
その人の目、文章が訴えてくる。

これは経験則になってしまうかもしれない。

つまり、悩んでいる人間にとって、
蓋をしたのは、自分の理性が保っていられる限界に感じた事だって、
蓋を閉めることになるんだ。

こっちの方の原因の人を救うには、
かってにその辺りを判断してはいけないんだ……。

誰もが、自分ほど弱くはないけど、
誰もが、自分ほど強くもないんだよ。

苦しい事がどんなに苦しくても、
その苦しさの全てを考えてはいけないんだ。

その苦しさの一部を知って、想定せずに解決を見つけること……。


そして「信じること」……。

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ある空間に自分がいたとします。

その空間に他人が数名います。

笑ってもいません。
怒ってもいません。
泣いてもいません。

その他人は表情が見えません。

さて、その人たちは誰ですか。
表情がないその人達は、
あなたには
笑って見えますか?
怒って見えますか?
泣いて見えますか?

その他人達は、そこで何をしていますか?
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表情がありませんといっても、
想定できる範囲からはずれると、
その心理に反映されるなら、
つまり、余韻だけで想定をするなら、
その中に心理的な連想がはじまるかもしれません。

それは、自分が通常として考えていない場合にあった場合、
想定しやすいのが、その方向性となるかもしれません。


信じる事は、何故出来るんだろうね。
俺が信じる原点は何なんだろう。

俺の信じる……。

あ〜ぁ、もう、俺の大馬鹿さ加減には、愛想が尽きるぜ。
……っても、俺だからしょうがないか。(笑)

信じる、信じられる原点ってのが、何かにあったのか、
そこにあるのか、それとも、俺自身なのか?

そもそも、信じるって何?

どういう事を信じるって俺は理解しているんだ……。


信じると不安はそもそも、ついになるのか?
信じたら不安は無いのか?

いや、信じていても不安はあるだろう。
不安があっても信じていれば、落ち着けるだけだ。

一つ俺の意思が出来た。

やはり対を成すなんぞ、なんの意味もないな。
個性を失うだけだ。

感情と理論があべこべになっている人達よ、
俺と一緒に自分自身になろうぜ!


とはいえ、信じると不安……。

まだおくが深くて、みえない……。

でも、かならずなんとかしてみせる。

そうだ、もう一つ、勇気ってのを加味してみる事にしよう。

……近いいつかね……