前が見えた刻……  
 

2002-10/8 (Tue)

 
 

確かな絆。

それを今日はよく考えた。

何を不安がっているのか、なにが不安なのか。
でも、それを追求しなくても、解決できる事がある。

それが繋がり。

どんなに周りがみえなくても、繋がりの無い人間なんていない。
最低、相談にのるって言っている俺がいる。
もし、相談って、まぁ、俺の場合、自分を持っている人しか、
あんまし相談にのらないけど、不安の中で信じられる糸口になるんだ。

周りを信じてほしい気持ち。
仲間を信じてほしい気持ち。

俺はいつも、その中から、その人の答えが見えてくる気がする。
無論、俺にはみえないんだけどね。

でも、その人に、顔の表情として見えてくる気がするんだ。

ほんとうに不安にかられた人の表情が安堵になるその気持ちが……。
いや、目なのかもしれない。
俺もこれはほとんど経験則だ……。

楽しみの後、辛いから楽しんでいるんだけど、
楽しみには、こと細かく終焉がやってくる。

終焉から迎えられるのは、寂しさ。

もし、そんななら、きっと、周りを見ることなんだ。

きっと繋がっている何かが、きっと力をくれるんだ。

信じられないのは証拠がないから。
裏切られるかもしれないのは、見えないから。
悲痛の中で、自分の周りに壁を囲んできた人が、
自分の仲間までも塞ぎこんでしまう。

俺は、表面しか見ていないのは、間違いだと思うと信じている。

誰もが傷をもっているからこそ、

誰もが、傷を癒す場所を求めているんだ。

だから、誰もが信頼できる関係になれるんだ。


だから、周りに集う仲間がいるなら、
なんでも相談すればいい。

傷をしる者が、その傷を自分で認めているなら、
寄りかかったときに決して、眉間にしわを寄せたりしない。

傷を知る者が、傷を塞いでいて、自分を破壊する者を見ていて、
頼ってくれない事をきっと寂しがっているんだ。

何故、活きている仲間なのに、
生きているだけで傷つくことを知る仲間なのに、
傷を一人で塞いでしまうんだってね。

実際には恥ずかしさや、俺にも創造のつかない事情が
それぞれにはあるんでしょう。

それは、俺が俺の体験だというoriginalなように、
生きている個々の人が、originalの人生を歩んできているから。

だからこそ、疑う事をしないと決めているんじゃない。
常識なんて今更なんの役に立つんだ。

もう一般的な尺度なんか捨ててもいいだろう。

いや、自分を持っている人間は既に、
捨てかけている。

そして、捨てている。

だったら、信頼ってのは、信用ってのは、
その中にも先にもあるんじゃないのかな?

もっと、自分を大切にしてほしいんだ。

自分で自分を傷つける。

でも、自分で自分を傷つけている事さえ、気付いていない。

本人は傷つけないように努力しているつもりだ。

だからこそ、そのときこそ、仲間ってのは、
同じ何かに集ったなら、信じてあげてほしいと思う。

きっと自分の中に、揺るがない、信頼の絆の作り方を知るでしょう。

そして、今日、前が多分見えたんだと思う。

その人から、ありがとうという言葉を貰った。

相談を受けていてこの言葉を貰った。
ちょっと照れた(笑)

普通、相談を受けると、この言葉の意を託して、
俺の云った、自分という個性をもつことの意味、意義として、
自分価値観を述べてくれる。

「ありがとう」ってのは中々いいにくいからね。

だから、
「私にとって、活きることは〜〜〜だって気付いたんです。」
とか
「俺は俺の筋を通してがんばりたいとおもう。」
とか
これが、感謝の意を託した結論として訊くことが多いんだ。

不安や困惑の中から出てこれた人から、
素直に「ありがとう」と言われると、
ドスグロイ小生には pure 過ぎて照れてしまうらしい。(笑

この感覚ははじめてだな。
無論、東京に来てからだけどね。(^^;;;

きっと、見える何かを信じて、
見えない何かも信じることができたんだろうと思う。

それが大切で、それが、自分の心の奥を作るのかもしれない。

だから、いろんな事象に感情を込めて欲しいと常々思った。