それぞれと自分の中で……  
 

2002-9/28 (Sat)

 
 

自分の意志を自分で信じるなら、
その根拠もまた大切。

我思うこそに我あり。

これは、かの有名な言の葉ですが、
公的な意としては、
仮想と現実さえ区別が出来ない中で、
唯一今思う自分がいるのだけは確かである。

そう哲学者は結論付けたそうです。

しかし、私にはそれ以外の意味で心に刻んでいます。

我思うこそに我あり。

我がある証拠というものを作るなら、
自分の意見をもって思う事だ。

って事です。つまり、

我の意見で思うこそ我あり。

なんですね。自分にとっては。
だから、きっと自分の価値、意見をきっと認められるとか
認めてくれる何かに対象にするのは別にいいんだけど、
判断をそこの土台にもって、二つの選択肢に絞る価値はまったくない。

だから、選択肢ってのは、選ぶ、選ばれるってのがあるんだったら、
選択肢を増やす、選択肢を削除する、選択行動を回避するってのが、
できる。

これは、単純に考えてしまうと矛盾してしまう。
理由は簡単、その事象を歴史としてみれば、
・必ず何かを選択することで、何かを選択できない。
という心理学や経済学の基礎がついて廻るからだ。

偉い人が考えたものだ。
でも、別に俺はその偉い人に自分の意見を通さずして下げるつもりはありません。
俺ってそんなに安かねぇ。(笑
敬語だって、自分が敬う人にしか使わないし。
テキトーに敬語使っている人達とは一緒にされたくないね。(笑
俺個人が活きているんだから。

そう、選択肢ってのは、別に選択される前に、容易されているわけではない。
つまり、無限大にある中で、他人が想像つく範囲に安易に常に考え、
その選択肢を常識感で、自分を洗脳している自分がいるってだけのこと。

つまり、簡略化、概要的な絶対法則みたいなものかもしれない。
実はこのあたり、あんまし自分の意見がつくれていないんで、
よくわからんのれす。

でも、選択肢ってのは、選択したあとに、コロンブスの卵で他人が勝手に枠に
その人間の価値を仕切ったり、区切ったりして、限定することで、
安易に想定して評価しているだけ。

そこに、そういう価値をつける事自体、おいらはあんまし興味がないし、
逆に価値をもたないことが、自分にとってはmeritが沢山あるので、
まぁ、こんな感じになってしまっているんですが。


人間ってのは、自分ってのは、何なんでしょうね。
それは、いろんな考え方があると思うんです。

正しい、間違いなんてないし、
自分が自分である事が真実や事実である必要も、
私個人の見解としては、まったく無いんです。

それで、納得して活きていける揺るがない自分の根拠になっていれば、
俺は、俺個人は、その人の活き方を素晴らしいと認めています。

さて、俺自身ですが、
俺は実は、俺のために生きている人間のgroupに所属しているのですが、
その中でも、自分originalとして、根底にある一つの考えがあります。

これは、他人様からみて、はたしてどういう感想をもつのか、
全く皆無だったりするんですが、
こういう根拠を根底にもった人間が、今、こういう意志で今の性格、行動、
価値観、などを持っている結果になっているとしても過言ではないです。


俺的には、自分という意思は、残念ながら、自分で生まれたものではないと思っています。
つまり、俺という感情、私の意思、僕の原点に活きているのは、
自分ではないって思っているんです。

ちょっとびっくりする考えでしょ?(こらこら同意を求めるな(笑))

これは、でも、別に変なお告げがあって、ある日目覚めたって事でもないんです。

自分的な根拠としては、簡単にいえばこんな感じの事だと思ってください。
人間が赤ん坊で生まれてきます。
言の葉を持っていない、自己感覚さえないあかんぼうです。

赤子は、狼に育てられます。
赤子は自分が狼だと覚醒します。
ここには、既に人間的な主観、客観は無いって考えています。

人は、人として育てられて、人として洗脳されて自分を持つと思うんです。

だから、俺は、いつも、
「我の思う事こそ我あり」
なんていいましたが、ここの我の部分をつくっている自分の意志、価値に
反映されているのが、この自分の心に、ある程度(あくまでもある程度)
何らかの意思としてあるんだと思うんです。

だからこそ、私は自分の思想に自分をいれて、
自分の満足できるそんな時間と空間を作っているんです。

それが、きっと、自分を作っている土台や、何かの自分の判断基準に
きっと大きな自分の価値の何かとして知ることができるのかもしれません。