感情の創造  
 

2002-9/20 (Fri)

 
 

一生懸命がんばっている人がいる。
一生懸命活きようとがんばっている人が沢山いる。

でもね、自分はその一生懸命に疑問を持つんだ。

一生懸命の中に自分はいるのかな?

つまり一生懸命に個性(つまりは自分なんだけど)はあるのかなぁ?

つまり、活きようとする心は個性なんだけど、
一生懸命活きようとするその、視点が見つめている先には、
自分の意思が反映されているかなぁ?って事です。

俺の場合、人生は楽しむこと。
楽しくない人生なんていらない。

一緒の事を考えている人がいました。
でもね。
俺は一生懸命活きているんですよ。「楽しんで」

わかっている人もいるとは想いますが、
根本的に「楽しい」ってcategory、genre、ruleがあるわけではないんですよ。

いいですか。
「楽しい」ってのは、あなたの個性が創造しているんですよ。
だから、「遊び」=「楽しい」は人によっては楽しくないかもしれない。
無論、こういう人は少ないでしょうけど、
個人に当てはめたら、当てはめた人が負けです。

個人とは、唯一の存在。一般に染まる唯一なんて矛盾は通りません。
予想当て quiz ではないんですから。
そんなsenseを磨いても、外れたら、その人その個性は
二度と理解できなくなってしまいますよ。

だったら、だったら、これは俺の答えで sample だけど、
こんな考え方だってあるんです。

気持ちってのは、自分の主観に問い合わせて
・何か興味ある事。
・何か感じること。
・何か信じられること。
・何か気になる事。
って「楽しい」の原点だと想うんですよ。
俺的なんですけどね。

こう考えている奴も世の中いることです。
だから、俺は楽しんでいます。

一生懸命になるのは、いいんだけど、一生懸命の矛先が、
一般像で洗脳されていたら、ダメなんですよ。

あと一歩なんですよ。
あと一歩。

自分が自分である本当の自分で活きたいと挑戦されるなら、
枠を見つけて、こわさなくちゃ。

枠ってのは、いつも自分の先にはありません。
先を探すのは簡単なことです。

違うんです。

見るのは、過去でも未来でも、前でも後ろでもなくて、

自分が乗っかっている土台なんです。

自分が常識と捕らえている安定した台なんです。

考えなくても、矛盾していないと考えている、みつけにくい
大変なものなんです。

だから、だから、俺も、未だに土台にどれほど
自分らしくない部分があるかどうか、把握できていないんです。

理性と本能を構成している土台だから。

つまり、理性でも、本能でもなくて、理性と本能を
ジョイントしている部分にあるんです。

それだけではなくて、その土台は一般像ももってるし、
生きる意味、感情さえもっているんです。

血のつながりなんて感情は、この土台の一部です。

一般的な家族愛なんてのもこの土台の一部です。

血はつながっていようが、いまいが、
そこの個人と自分のかかわりは、originalです。
一般的に簡略できる安易なものではありません。

一般的な家族愛の表現は、
鉄火面をかぶった自分を殺したのと一緒だと想います。
もっと、originalなものでしょう。

きっと、土台を崩さずに行き着く先には挫折しかないんです。
その挫折は、すべての事象を汚れさせてみせると想うんです。
だから、悲観的なものの見方をする人の中”には”、
この経由でなった人も多々いて、
その人の過去の努力を知っているものが、
間違って、その悲観感覚に共感してしまうんです。

無常。無情。
いろんな意味で、いろんな心がありますが、
自分とは、自分の主観に問い掛ける事は、
自分にとって、その事象の価値観を決めて、
矛盾したら一般像と照らし合わせる方法があります。

だから、私は、
「故人いはく……。」
とか
「誰かがいいました。……と。」
とかでなくて、
「俺は、私は、……」
で応答が返ってくる人が好きです。

I think so....

この原点には、自分の過去を隠蔽せず、
自分の過去を人生のcareerとして、活きる自分が存在しているからです。

何事も一歩なら、

I think so....

から始まるもの「かも」しれません。
内容はどうでもいいんです。個性だから。
変化してもいいんです。それは成長だから。

それを恐れずに、一般的な視線をはらって、言える勇気がまず大切なんです。

だから、だから、
人間って奴は、個々のなかに宝物をもっていて、
どんなに copy を試みたって、無限大に copy はできないし、
そこに、無限大の価値があるんだと想うんです。

だから、
俺は、それを見ているんです。
いろんな人の背中から。

みているだけで、自分も成長しているんです。

切欠がどんなに醜くても、素敵でも、そんなことは、どーだっていい。
活きる事に目をむけたなら、
活きることに、気付いたなら、
どんな事でも前に進んで欲しい。

傷痕が深くて前が見えないなら、その人の前を一緒に探してもいい。
相談ってのは、こういう事だろ?
傷が多くて前が見えないなら、癒す手段を考えたっていい。
助けるってのは、こういう事だろ?

諦めてはいけないんだ。
諦めは元に戻るだけだから。

理由は個々にあるから限定はできないけど、
活きることに目を配った、そのときの気持ちを忘れないで欲しい。

その人には確かな理由があったはずなんだ。
もどってはいけない確かな理由が。

いろんなことに疲れるかもしれない。
でも、でも、あなたの魂が疲れてはダメなんだよ。

活きる事象は個々が違っても、
「活きる」という概念は一緒だ。

だから、全ての事に対して、負けちゃダメなんだ。
何に対しても、「負け」ってのは、自分の心が作っているんだから。

だから、がんばってほしい。
でも、一般的にがんばってほしくない。

自分が活きるために、自分の道、自分の楽しみのためにがんばってほしい。

俺は、本当に切実にそう想うんだ。

俺も、一生懸命活きているから。