feeling  
 

2002-9/7 (Sat)

 
 

最近、感じるという言葉が大好きだったりする。

魅力ってのは、よくわからないけど、感じ方、感ずる先にある
一つの拡張表現かな。

自分が自分だと「活きている」瞬間ってのは、
自分の視点、起点、立脚点、原点、根本には、
いつも、完全なる主観に捕らえた「感じる」事が前提になっている。

でも、おいらは、不完全な人間です。
「視点」は本当に自分の意思なのか……。
「起点」は本当に自分の意思なのか……。
「立脚点」は本当に自分の意思なのか……。
「原点」は本当に自分の意志なのか……。
「根本」は本当に自分を考えているのか……。
「完全なる主観」さえ自分に成っているのだろうか……。

わかんないけど、
わかんないから、
成長できるって事もあり?かなぁっ……て、
おもって行動しているわけで……。

自分の中にある「何か」ってものが、
「何か」で判りきってしまうと、
なんだか、自分の価値がなくなって
しまうような感じもしています。

でも、それは今の自分だから。
今といって過去になっていった自分より先の今の自分は、
もしかしたら、答えを見つけるかもしれない……。

……それって結構楽しみ♪……

本当に、
どこに誰がいても楽しいし、
この時間、この時代を生きれた事には感謝しているな……。
自分を成長させるには、都合が良すぎる時代だ……。

自由と解放を履き違えた自分が、
本当の自由を手に入れようと今、
一生懸命がんばっています。

きっと洗脳してしまい切った自分から
解き放って、その中に残った塊は魂だと想うので、
それを磨いてみようかと。

きっと、この過程がどれほど長くて、短いものか、
それはわからないけど、
そうやって活きていく事が、
その過程も、自分の財産になると想うんですよ。

一生懸命活きるってのは、
必要以上に、身を粉にしてがんばる事でも、
気まぐれに、ほのぼのと生きる事でもなくて、
視点を変えて、起点を変えて、立脚点を変えて、
自分が自分の意志に反映して行動している結果が、
他人からみて、
「必要以上に、身を粉にしてがんばる事」
「気まぐれに、ほのぼのと生きる事」
になっているのが、いいんだと考えます。

そうする事で、努力や開放感に空しさは
きっと消えるのではないでしょうか?

信じるのは、他人からの評価ではなく、
自分への純粋な信頼ではないでしょうか……。

そんな気がします……。
信じられない「何か」があるとき、
その対象物が「信じられない」場合もあるかもしれません。

でも、もっと大切なのは、確かなものがそこにあるってことです。

それは
「信じられない自分が確かにここにいる」
って事で、それは、
「信じられない程度の自分が、この想いが確実なるもの」
であって、
「信じ切れない、切ない自分がいる」
のは、他人が信じられない要素を、
他人である自分が決め付ける事よりも確実なんです。

結果的に信じる、信じない、で行動を起こすのではなく、
違う視点で行動を起こす事も可能ではないでしょうか。

それは、個々の心に反映された、自分の意見に伺ってみてください。

自分には、まだ答えが出ていませんが、
この先に何か答えがある感じがしているんです。

きっと、世界観が変わるような……。